現在の若手落語家のほとんどが大卒だと言う話を聞いた。大学を卒業して落語家になったって何の不思議もないと言えばそれまでだし、落語家だけでなく場合によってはフリーター、あげくはホームレスにだってなる人の居ることは、そんなに珍しいことではないだろう。
 むしろこれだけ大卒が増えているのだから、その増えている分だけ目立つのも当然だと言えるのかも知れない。

 しかし、こうした風潮を見ていると、特に落語家だけに限定して思うのではないけれど、大学で学ぶということは一体何なのだろうかと考えてしまう。
 「大学を卒業して落語家になった異色の存在」と言うなら、それはそれでいいと思うのだが、若手落語家の多くが大卒と言うのは、私の気持ちの中ではやっぱりどこか納得のいかないものが残ってしまう。

 決して落語家を卑下しているのではない(多少テレビに出てくる軽薄な姿勢に影響されていないとは言い切れないものがあるけれど)。
 これだけ大卒が多くなってくると、公務員だって学者だって企業経営者だって、あらゆる分野に大卒が入り込むことは当然だと思う。そしてこれと同じように、犯罪者にだって大卒が増えていることだろう。

 だから、この「大卒の落語家」という意識は多分に私の偏見なのだと思う。ただ、そうした理解にもかかわらず、私は「若手落語家のほとんどが大卒」という現実に違和感を覚えるのである。
 それはきっと、大学で学ぶと言うことに対する私自身の特別の思い入れがあり、それとは対照的に落語家に対しての、極端に言えば貧乏とか下積みの弟子とか無報酬の修行と言った昔ながらの固定したイメージを持ち続けていることとの落差の問題なのだろう。

 大学が「学ぶ場所」から遠く離れていき、高卒で就職することからのモラトリアム(支払猶予。社会的義務や責任から免れて遊んでいることが社会的に認められる期間)もしくは肩書き欲しさみたいな、勉強することとは無関係なレベルで入る者が増えていることへの、私自身の一種の「ひがみ」なのかも知れない。

 大学が経営を基本におく大卒者の大量生産マシーンになってしまい、親も学生もそれに踊らされている現実は、大学自らが大学としての存在理由を放棄したことでもあるのだし、大卒が多くなるということは一定の割合(平均点が下がるぶんだけその割合は増えていくのが当然かも知れないが)で「ろくでもない大卒」も同時に増えていくことを示しているのだろう。

 苦学という言葉がいつの間にか死語になってしまい、皮相的ではあるが、「合コン」がそれに取って代わるような時代になってしまった。

 でも、大学はやはり学ぶ場なのである。「学ぶ」ということを、もっと大切にして欲しいと、私は考えているのである。大学へ行けなかったことを後悔したことなどないけれど、行きたくても行けなかった者、学ぶ機会を得られないまま生活という世俗にまみれなければならなかった者が、世の中にはたくさんいるんだということを大学に通うものは理解してほしいと、男は考えているのである。

 大学だけが学ぶ場所ではないだろうけれど、少なくとも学ぶためのしっかりした設備が整っている場所なのである。もっと学ぶことを目的とする者が大学を目指して欲しいと、大学に特別の思い入れを持っている男は一升瓶を横に、真剣にそしてうじうじと考えているのである。

 * こうした話題に落語家を持ってきたのは、たまたま落語家に大卒が多いという話を聞いたからであって、落語家そのものに特別な感情をもっているわけではない。まして、落語家になった大卒者が勉強していないとか、勉強しなくても落語家になれるんだというように考えているのでもない。大卒の落語家と言う私の中の違和感をネタに、大学生に対してもう少し目的を持った勉強をして欲しい、もっと極端に言えば苦学こそ勉強なのではないかという、理屈以前の私の偏見を伝えたいと思っただけなのである。


                            2004.07.06    佐々木利夫


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大卒の落語家