セイダカアワダチソウと自家中毒


 このホームページの「気まぐれ写真館」の中に、道々の空き地に茂るセイダカアワダチソウの写真を載せたことがある。
 そのときのコメントに、この外来種がそのうち日本中を席巻してしまうのではないかという心配をよそに、これまで野生していた在来の植物が頑張って共存していると書いた。それは在来種の頑張りに対する一種の感動でもあった。

 この植物は北米が原産の外来種で、地下茎から他の植物の成長を阻害する物質を分泌して自らの勢力を拡大していくというから、そのうち日本中が真黄色になってしまうのではないかという心配も、あながち根拠のないものではなかった。

 ところが最近こんな本を読んだ。「セイダカアワダチソウという雑草は強い生命力であっという間に野原や空き地おおいつくしてしまう。そして数年後、自家中毒を起こして枯れてしまうのだ」(サイエンス言誤学、清水義範、朝日新聞社)。
 そうすると、共存が在来種の強さによるものだという私の理解は誤りで、この植物が増えすぎて勝手に自滅していくだけのことだというのが正解になる。
 ほんの少しだけれど、「在来種頑張れ」と応援してきた私にとって、この説明は少々がっかりだった。

 ただ、自家中毒とは、自己の体内で作られた毒物による中毒をいうから、セイダカアワダチソウが自分で自分への毒物を作り出すというのは、にわかには信じがたい。つまるところは自分で自分の首を絞める、それも死ぬまで絞めるということであり、種としての自己を否定するようなシステムがどうして組み込まれているのだろうかということに、多少の違和感があったからである。

 数学で学んだことのある成長曲線は、生物がある限界を超えると成長、つまり増加が止まると説く。それは主としてその生物を支える食料に限界があるからだとも言わていれる。セイダカアワダチソウにどのような仕組みで限界が出るのかは良く分からない。世界中を自分で埋め尽くし、そしてそれ以上自分を増やせないというのなら分かるが、どうして他の植物と共存する形で一種の限界を作り上げてしまうのだろうか。

 その答えは比較的簡単かも知れない。なぜなら、共存なくして自分の存在もまたあり得ないからである。他者を承認し、その他者から己の種族とし生き続けるための様々な資源を得ていかなければならないからである。
 ただ、増えすぎた種族の保存のために一部が自滅しなければならないという論理は、種族全体としてはとても分かりやすい。でも人は統計で生きているのではない。自滅するのが自己や親族や知人でも許容できるのかと問われれば、それがどんなに必要な自滅であろうとも理不尽である。

 レミング(ねずみの一種)は、増えすぎると集団で移動を始めるし(集団で自殺するという風説はたまたま事故で死んでしまう場面があるというだけで誤りらしい)、みつばちの分封も同じだろう。動物に共通する「なわばり」をめぐる戦いも、相手を排除するという視点から少し離れて共に生きていくという面から見るなら、どこかで共通しているような気がする。

 スタートレックという人気SFテレビドラマがあり、私も熱心なファンだった。その中のバルカン星人のスポックの決まり文句のあいさつに、「長寿と繁栄を」というのがある。
 人はいつの世も長寿と繁栄を望み続けてきた。繁栄は成功であり、更なる繁栄を謳歌し味わうためには長寿が必要である。
 秦の始皇帝は不老長寿の秘薬を求めて世界の各地へ使者を出したし、アレキサンダー大王や十字軍による飽くなき領土拡大も、繁栄を求める人間の飢えというか、乾きのあらわれなのかも知れない。

 そして現代も、それと同じことを繰り返している。だが結果はどうだ。長寿は老残を示唆し、繁栄は様々なツケを我々に突きつけた。

 繁栄の最大のツケは実はゴミであった。はじめはこっそりと処理したり、隠したりすることでとりあえず目の前から消すことができた。
 しかし、止まるところを知らない繁栄への希求は、生ゴミ、粗大ゴミ、排気ガス、ダイオキシン、地球温暖化、オゾン層破壊、海洋汚染、アトピー性皮膚炎などのアレルギー疾患・・・・・・を生みだし、人は今、数え切れない災厄に直面している。
 ゴミはこうした「物」だけの世界ではない。現代は、いじめ、リストカット、引きこもり、自閉、ストーカー、児童虐待、援助交際、親父狩り、痴呆、・・・・・、そうした「見えない振りをしたいというこころ」をも生みだした。こんな言葉を価値観の多様化などという一言で片付けようとしてはいけない。使い捨ての文化は、人の心、自分の心さえゴミのように使い捨てにしようとしている。

 そしてそれでも人はなお、自分だけの繁栄を、まるで麻薬中毒患者が禁断症状にあえぐように望んでいる。いや、中毒患者なら破滅の予感を自覚しているだろう。今はむしろそうした繁栄が正しいことだと、「信じ続けようとしている」ところに一層の危機感がある。

 犯罪、戦争、テロ・・・・・、小さなエゴから大きなエゴまで、人はこれまで何を望んできたのだろうか。道端の植物にさえある共存の姿が、人にはもう見えなくなってしまったのだろうか。「自滅の前に考える」、これが人間の叡智なのではないか。
 セイダカアワダチソウのように、組み込まれた自滅のプログラムが発動するのを待つのではなく、その前に人は共存を見つけ出すことができるのだろうか。発動の時は迫りつつある。
 

                    2004.2.8   佐々木利夫