自己責任という言葉が大はやりである。有り余る金をギャンブルで浪費するとか、今日はどのスナックへ行こうかとか、趣味でどのパソコンを買おうかなどと迷うときの自己責任なら分かる。
 もっと大きく考えて、「どんなことだって、自分が選択した結果は自分で責任を負うのは当たり前だ」と言ってしまえば、そのこと自体は正論だろう。

 しかし、世の中取引だって、相談だって、情報だって、ほとんどの場合相手があって始めて成立しているのだし、これだけ専門化し分化している社会なのだから、なんでもかんでも受け手側だけに一方的に自己責任という言葉をつけて責任を転嫁してしまうのはとても無責任に思える。

 最近の新聞に「がん検診は自己責任で」という記事が載っていた(読売、2004.2.11)。アメリカでの話であるが、男性の前立腺がんの事前検診はその有効性が定かでないとしている。そして仮にがんにかかっていたとしても、このがんは進行が比較的緩やかで、放置しても命にかかわらない場合がある上に、高齢者特有の問題かも知れないが、がんより先に他の病気で死んでしまう可能性も多いと言う。
 しかもこの前立腺がんの治療の現実では、治療に伴う後遺症や副作用、時には手術そのもので命を落とす危険性もあり、なんでもかんでも治療する必要はないのではないかという疑問もあるというのである。

 さて、その上でこの記事は、日本の現行制度が「検査の効果、治療の方法や成績、副作用などが正しく受診者に伝わっているか心もとない」としつつ、「さまざまな情報を吟味して、自己責任で検診を受けてみては」と結んでいるのである。

 これは一見当たり前のことを言っているようでありながら、なんとなく変だ。ことは命の問題である。命の問題だからこそ責任を負いたくないのかも知れないが、検診する側は専門家である。長いあいだ勉学し、実地に訓練を受け、国家資格まで得た専門家である。その専門家が、あちこち調べた上で材料だけ患者の前にぶちまけて、「さあ、これから後は自分で決めてください」はないだろう。
 もちろんギリギリ自分で決断しなければならないことは分かる。その決断が、手術するかしないかのいずれかしかないだろうことも分かる。

 しかし、どんなに頑張ったところで、患者の知識が医者の能力を超えることなんて絶対に期待できないだろう。例えば医者が手術の危険性について説明したとしても、手術の知識はおろか病気そのものだって良く理解できないでいる患者に、その危険性が医者と同じレベルで理解できるだろうか。こうした場合の判断は、自己責任とは別のレベルで考えていかなければならないのではないだろうか。

 ある医薬品の投与について、「危険と効果を十分患者に説明して、その上で患者に決定させる」という文章を読んだ。本当にそれが正しいやりかたなのだろうか。
 一体全体、専門家にも判断のつかないことを、どうして「自己責任」の名の下に一人の個人に責任を転嫁してしまえるのだろう。

 「さまざまな情報を吟味して、自己責任で決定する」こと自体に、理論的な誤りはないだろう。ただその背景には、「どんな人にもすべての情報を吟味するだけの知識と能力が備わっている」という、とてつもない錯覚、とんでもない思い込み、場合によっては自己責任という語を発する側の傲慢な思い上がりがあるのではないだろうか。

 税理士なんぞという仕事をしているからか、あちこちからいわゆる金融商品もどきの勧誘受けることがある。勧誘する側も「絶対儲かります」とか「元本は保証します」という言葉は禁句になっているから、「とても有利な商品です。安全です。お勧めします。」ということになるが、結局その商品を買うか買わないかは自己責任でということになる。

 最近の個人向け国債の購入を勧誘するのパンフレットの一文である。「余程のことがない限り・・・安全性はとても高いといえます」。余程のことって一体何だろう。それについてここでは例示も含めて一行も触れられていない。
 そしてこの国債の利率は変動金利であり、半年ごとに実勢金利に応じて変動するが、パンフレットでは「おっ、金利があがってきている。次の利子が楽しみだぞ」との漫画入り吹き出し文はあるが、金利の下がることは触れていないのである。

 元本割れしても、国債価格が暴落しても、インフレで価値が減少しても、それはすべて「国債を購入することを決めたあなたの自己責任です」ということになるのだろう。そうした危険を十分理解し、判断した上で、買うか買わないか決めろと言うこの自己責任という言葉に対して、どんな風に検討していけばいいのだろう。
 円や株が明日どうなるかさへ見当もつかず、日本の来期のGDPがどうなるのか、それが日本経済にどう影響し、それが自分の買う国債の安全性や利回りにどんな影響を与えるのか、影響を与える要因はそれだけと考えて良いのか。
 まあ、人並み以上のうまい儲け話に乗っかって失敗するというパターンは、それほど珍しいことではないし、それこそ自己責任という言葉にふさわしいと考えてもいいかも知れない。

 自分で考えろと言うことはたやすい。ただ、世の中のほとんどのことは考えても分からないことが山ほど存在しているのではないか。だから人は一寸先は闇と言い、自分単独では決められないことでありながら、どうしても決断しなければならない事柄に関しては、あの魔術的とも、呪文とでも言える言葉、「なに、構うものか」、「えい、やっ」を考え出してきたのではないか。そしてそのことと、自己責任という言葉とは真っ向から対立するのではないだろうか。

 こんなことを考えていたらまたまた最近の新聞に面白い記事が出ていた。アメリカの下院で「太り過ぎたのは高カロリー食品が原因、などとして食品会社を相手取って損害賠償訴訟を起こすことを制限する法案」が圧倒的多数可決されたというのである(読売、16.3.12朝刊)。法案が成立するには上院での可決も必要だけれど、なんでもかんでも他人のせいにして訴訟で解決しようとするアメリカの風潮に、自ら歯止めをかけようとする動きが面白い。
 この新聞記事の見出しは、「太り過ぎは自己責任」であった。これなら分かる。自己責任というのは、誰にでも理解できる範囲で、しかもだれもが管理可能な場合に言えることなのではないだろうか。

 自己責任という語は時に耳障りがいいけれど、実は「ないものねだり」を強要しているのではないだろうか。いや、それ以上に場合によっては不可能な事柄を、砂糖にまぶし、オブラートに包み込んで無理やり理解できない人たちに飲ませようとする幻覚剤になっているのではないだろうか。

 「なんでもかんでも他人任せ」と言うのではない。ただ最近の「自己責任」という言葉の乱発の影には、行政や責任ある企業や専門家集団の責任回避の姿が見え隠れしているように感じられてならない。責任ある立場の者は、「ここまでは安全」、「ここまでは間違いない」と言う、ギリギリの線までは、きちんと分かる言葉で保証してもいいのではないか。

 それともそれは錯覚で、どんなことでも他人に責任を押し付けたいといつも潜在的に願っている私の、責任回避意識にまみれた深層心理のなせる技なのでもあろうか。

                       2004.03.20    佐々木利夫


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自己責任という言葉の持つ危うさ