戦争と平和と

 世の中色々な考えの人がいるし、また、色々な考えの人がいることが社会を豊にしているとも言える。だから、「戦争大好き」とか「世界の発達は戦争によってのみ成し遂げられてきた」、「戦争こそが経済発展の基礎である」、はたまた「人口爆発抑止のためには戦争こそが必需の手段である」などと考える人がいたとしても、賛否はともかくそうした考えがあること自体を否定するつもりはない。

 ただ、新聞や雑誌を読んだりして感じることなのだけれど、こうした考えの人はゼロではないだろうが極めて少数であり、ほとんどの人が「戦争よりも平和を望んでいる」というのが現実である。つまり、戦争と平和のどちらが好きですかなどという愚にもつかない解答を求められたとしたら、迷うことなく平和を選ぶ人が大多数であると考えられると言うことである。

 にもかかわらず、世界のいたるところ、そして歴史のいたるところにおいて、戦争が絶えないのは、明らかに「戦争か平和か」という二元論では割り切れない要因がそこに存在していることの証左なのではないかと思う。

 ここで仮に最初に掲げた戦争肯定グループの考えを「戦争大好き」と一まとめにしてみよう。「そうした人が世界の過半数を占める、また、過半数を占めようとしている」という前提を置くならば、「平和の意義を唱える」ことは有効な手段である。戦争がいかに悪であり、平和であることがいかに必要かを説得することは有効な手段である。

 しかし、「戦争よりも平和がいいに決まっている」と考える人が多数を占めているにもかかわらず、「現実に戦争が起きている」ことを問題とするのならば話しは別である。「戦争よりも平和の方がいいに決まっている」ことは承認された前提となっているのであるから、戦争と平和の問題は別の角度から考えていかなければならない。

 こうした意味で最近の有事関連法案に対するマスコミを含めた平和論者の考えには、大きな錯覚もしくは平和を訴える基本的な姿勢の誤りがあるのではないだろうか。つまり、多くの人、もしかすると大多数の人が「戦争よりも平和がいいに決まっている」と思っているのだから、そこへ「平和の方がいい」とか「平和の方が正しい」と言ったところで、それは戦争を回避するための説得材料にはなり得ないということである。
 なぜなら、現実の戦争は、そのどちらの国が正しいかどうかは別にして、「一方の国が他方の国を不当に武力をもって攻撃するのでそれに対抗する」ことを前提として発生しているからである。

 そうであるとすれば、平和を叫ぶ者は次のいずれかを主張しなくてはならないことになる。
 @ 「世界には武力を行使して他国を侵略しようとするような国は存在しない」
 A 「不当な行為であってもそれは武力以外(つまり話し合い)で解決する。そうでない場合は 相手の武力に従うことで戦争は回避できる」
 @ もAもともに一つの見解である。一国の国民として選択可能な見解である。だから平和を叫ぶものは、単に「戦争よりも平和がいい」というのではなく、平和のためには@なりAなりを具体的に主張すべきなのである。

 特にAは重要である。これによって戦争が起きないことだけは間違いないからである。
 でもAを果たして「平和と呼べるか」という疑問は残るであろう。むしろ我々が戦争とか平和を考え、その中で平和を選択するという行為自体が、「自主」、「自治」であるとか「自立」、「独立」、「人権」何でもいい、自分の意見を自由に発表することができ、そうした中で自己を確立していく過程、更には一定の秩序を他人に承認させることの中で発生してきた問題だと思えるからである。

 だから「戦争よりも平和がいい」は、反戦を主張する者の正当な理論にはなり得ないのである。なぜかというと、「戦争よりも平和がいい」は、議論以前の前提、つまり、戦争か平和かを議論するそれぞれの人々の共通事項として始めから存在しているからである。

 そうした意味で反戦のスローガンやポスターなどでアピールされる幼い子供の姿(なぜか瞳がきれいだ)や、「罪なき者が殺される」というメッセージは実は反戦の根拠を持たないのである。
 そしてそうしたアピールはむしろ生命に順番をつける、若しくは生命には軽重があるということを前提にしているという意味で、逆に致命的な誤りを犯していると言える。

 命をテーマとするメッセージの背景には、間違いなく生命の等質つまりあらゆる生命が同じ程度に尊重されるという基本的な約束が背景にあるであろうし、また、あるべきであろう。にもかかわらずこうしたポスターは、髭だらけの兵士や指揮官の命と瞳のきれいな赤ん坊の命とは質的に違うのだということを無意識に伝えているのである。

 そしてこの見解が問題なのは、そうした無意識の背景を、まだ自立した意見も少なく、無批判に他者の意見に従うしかない幼児や子供に対して刷り込もうとしていることである。
「命の平等」と「罪なき子供たちが殺される」というメッセージは、似ているようでまったく異なった主張をしているのである。

 そうだとすると、戦争と平和の問題は「人が人を殺すこと」をどう考えるか、にあるはずである。「人が人を殺すこと」を正当化する理由はいくつもある。興味や狂気は論外としても、民族、祖国、治安、宗教そして皮肉なことに、時には平和さえもがその理由とされることは歴史の証明するところである。
 つまり反戦の論点は、「戦争よりも平和がいい」のではなくて、「平和がいいに決まっているけれど、そのために戦争の必要な場合がある」という主張に対しての正当な反論を用意することなのである。

 最近テレビでこんな言葉を見た。「戦争しか知らない子供たち」。日本は平和だと思っているし、「戦争を知らない子供たちが戦争を美化するような気風が心配」ということを心配する大人の問題は、実は本当に平和ボケしていて何も理解していないことを意味しているのであって、若しかすると、とてつもなく恐ろしい現象なのではないのだろうかと、ふと考えてしまう。

 世界は戦争で満ちているのである。戦争しか知らない子供たちが溢れているのである。この地球上で、60年以上もの間戦争のなかった国は、きちんと検証したわけではないから正確ではないと思うが、恐らく日本だけなのではないだろうか。それだけ世界には戦争が当たり前に存在しているのである。平和という言葉だけをお経のように唱えて済むような、そんな時代ではないのである。

 実は平和というのは、ないものねだりなのではないか。人が人を好きになるのと同じように嫌いになることも自然であり、その延長に闘いは必然として存在しているのではないだろうか。

 だからといって平和を願い続けることが無駄だといっているのではない。平和を求める努力というのは一種の戦いであり、そうする努力の過程そのものに意義があるのであって、常に戦争に備えておくこと、自分の身を自分で守っていくことが求められているのだと言いたいのである。

 たったひとりの小さな事務所で、井の中の蛙はこんなことを考えながら、缶ビールに喉を潤している。
 だからこの部屋は平和ボケの雰囲気に満ち満ちているのである。