テレビの再放送の刑事ものを見ていた。父の遺体を引き取るべき別居中の息子が、「明日はどうしても入りたい会社の就職試験の日なので、もう一日警察で父を預かってもらえないか」と切り出す話である。これに対する正義の士たる刑事の怒り、そしてやがて父と子の絆へとつながっていく話である。

 日本人はやっぱり死体に執着するんだなと、本当に感じてしまった。日本人にとって「死体のない死」というのがどうしても理解できないのかも知れない。死の実感は死体を確認することにあるのだと言い換えても良いのかも知れない。
 だから、冬山で遭難したり水死したと思われる子どもの遺体に親はいつまでも「寒かろう、冷たかろう」と声をかけ続け、戦後60年近くを経てもまだ、外国にまで遺骨探しに遺族は奔走するのだろう。

 前にもエッセイで触れた話だけれど(「死者を送るということ」平成15年発表)、ロミオとジュリエットのドラマで、この二人を失った両親が二人の遺体をその場に置いたまま、「おお、何と悲しいことか、今夜は二人について語り明かそう」と嘆きつつ別室に向かうシーンに、彼我の死体に対する考え方の違いをまざまざと感じた記憶がある。日本ならさしずめ両親とも、わが子の遺体にすがって離れようとはしないだろう。

 キリスト教では、天地創造を終えた神は、自分に似せて人を作ったが(創世記1章26節)、その材料は土のちりである。そして鼻の穴に息を吹き込んだときにその人は生き物になったのである(創世記2章7節)。だから人は命が抜けると「土に帰る」(創世記3章19節)のである。

 つまり命とは息(気、スピリッツ)であり、体とは別物なのである。最近の「21グラム」という題名の映画は、この命の重さを意味したものである。「人は死んだとき21グラムだけ軽くなる」は、この映画のキャッチコピーであるが、これが命の重さであり残った死体は単なる「モノ」なのである。

 現実に命に計量可能な重さのあることは証明されていないけれども、やはりそこに「物理的な存在」みたいなものを実感したいと願う気持ちがこうした物語を生むのだろう。
 そしてその魂は、天国へ向かうか地獄へ落ちるかはともかく地上からは消えていくのである。

 これに対し日本古来の神道では、死者の魂は地上に残っているのである。地獄極楽があると言うかも知れないが、これは仏教が入ってきてからの話であり、昔から日本人の魂は向こう三軒両隣の「草葉の陰」に潜んでいたのである。

 だから、いつか死者の魂は自分の体を求めて戻ってくるのである。死者を永遠に死者として葬り去ってしまうためには、死体を復活できないような状態にしておかなければならないのである。

 火葬の習慣は、魂が戻ってくるのを妨げる意味があるのかも知れない。いつも、どうしてこんなことをするのだろうかと気になっていた、棺の蓋を開かないように釘打ちしてしまう習慣も同じ意味を持っているのかも知れない。このほかにも「屈葬」は手足を強く折り曲げると言うし、「抱石葬」は石を抱かせるのだと言う。場合によっては足の骨を捨て、残りを埋葬する例もあるという。それもこれも、死者の復活を妨げるための方法なのかも知れない。

 それでも迷い出る死者の魂に対して、残された人々はその死者を神として祭る以外ないのである。日本の神社のご神体の中には、菅原道真や柿本人麻呂など、非業の死を遂げた者の復活を恐れて神として祭る例がいくらでもある。
 それらは御霊信仰(ごれいしんこう)と呼ばれているが、私の独断ではあるけれど、例えば東京で見た四谷の「お岩稲荷」だとか北海道日高地方の平取町(びらとりちょう)にある「義経神社」なども、恨みや未練をもって死んだ魂への慰撫なのかも知れない。

 また、丸谷才一は忠臣蔵の赤穂浪士討ち入りも「あれ(刃傷事件)は、浅野内頭という当代随一の荒人神を祭るため、二年がかりで準備した、大規模な儀式であった」(「忠臣蔵とは何か」)と、御霊信仰の側面からこの事件を説明している。

 つまり日本人の魂は、その死が不当非業であり、かつ、その死者が生前に社会を動かすだけの力を持っていれば持っているほど、死後の影響力も強いと考えられているということである。

 日本では、人は死んでも消えないのである。死者の世界に時間はない。老いてゆくのは肉体であり、その肉体は現世に置いてきたからである。

 ところでその現世に残された死体であるが、日本ではそのままにしておくと腐敗していくのであるのに、なんと砂漠や山岳地帯などでは、「死体は乾く」のである。
 当たり前と言えば当たり前のことである。しかし、私の頭の中には「死体が乾く」なんぞという熟語は皆無だったものだから、始めてこの話を聞いたときには正直ショックだった。

 死といえども一つの文化なのであろう。土着し、歴史的に規律されたイメージの中で、死もまた風土的な文化として位置づけられていくのだと、ふとそのことにわが身を重ねる歳になったことを感じている。


                       2004.08.18    佐々木利夫


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