死者を送るということ
全国から寄せられた投稿の中から40篇を選んだという「うらやましい死にかた」と題した本を読んだ。
編者の五木寛之氏が巻末の対談で、九州の筑豊では葬式のことを「骨噛み」(ほねかみ)と呼び、親しい間柄だった人などは実際にお骨を噛むことがあると書いていた。
そう言えば、死者を食べる風習のある民族が存在すると聞いたことがある。そしてこれとは別なところで聞いた話しだけれど、そうした習慣のある民族に死者を焼く風習について尋ねたところ、すざまじい嫌悪感を示したという。
死者を食べるという習慣は、我々の感情からすればとてつもなく非常識であり、嫌悪そのものである。ただ、そうした感情の背景には、一つには死そのものを嫌悪していることがあげられ、そのことに例えば牛肉や魚の肉を食べるという、いわば食事として食べるというイメージを重ねているからではないだろうか。
飢餓の果てに死者の肉を食うという話は、人伝えだけれど聞いたことがあるし小説などでも読んだ。1972年のアンデス山脈における旅客機の墜落事件や武田泰淳の小説「ひかりごけ」のもとになった昭和19年の知床岬付近の漁船の遭難事件などがそうであり、まさしくこれは生きのびるために食うのであって、子供心にも覚えている人食い人種の恐怖は、こうしたおぞましさが背景にあるのであろう。
しかし、葬送のために死者を食べるという風習は決してそうした背景を持つものではない。それは死者が生前に有していた知識や能力や知恵や経験を、生き残った者が受け継ぐための貴重な儀式なのである。死者は死までは生きていたのである。生まれてから死の時までに培われた貴重な経験は、多くの仲間を救い、家族を作り、養い、新しい世界を切り開いてきたのである。そうした先人の力を受け継ぐことは残された者の義務である。そうした無形の財産を、今ここに横たわっている体と共に朽ち果てさせ消し去ってしまうことは、場合によっては死者に対する無残な冒涜であると考えたのではないか。
鳥葬という風習がある。これとても食人の変形ではなかったろうか。直接食すことから、より天に近い鳥に死者の肉を与え、その天の使いを食べることで、能力を受け継ごうとしたと考えることもできるのである。
このように考えていくと、逆に火葬という方法は、とてつもなく残酷で、しかもエネルギーを浪費する死者の送り方のような気がする。葬送についての知識はそんなにないから的外れかも知れないが、火葬は燃料としての樹木の少ない地方では物理的に難しい手段だから、かなり限定された民族の中の限定された習慣なのではないだろうか。
日本だって古墳などの遺跡を見る限り、土葬が基本だったと考えた方が理解しやすい。そのままでも土に帰ってしまうのに、あえて火葬を選んだのは、土地が狭い、生活空間が制限されるという、極めて世俗的な要求によるものだったのではなかろうか。
もう10年以上も前になるが、海外版の「ロミオとジュリエット」を映画だったかテレビドラマだったかで見たことがある。死んだと思ったジュリエットを見てロミオが後を追い、息を吹き返したジュリエットがまたその後を追うという結末だった。その時、二人の親のセリフというか態度がとても気になった。哀しむ親の態度はいつの世も変わらないのだが、なんと「二人の死を共に悲しもうではないか」と言うと、二人の死体をそのままその場所に置いて立ち去って行くのである。
生きていてこその人であり、死者は物体であると言われればそれまでである。そして死もまた人により、民族により、習慣により変えられていくのかも知れない。命とは何かという命題はこれからも様々に論議されるだろうし、生と死の区別もまた、果てない論争が続くことだろう。
それにしても、目の前にある死者に対する彼我の認識の違いをまざまざと突きつけられたこのドラマは、ストーリーそのものとは別に私に強烈な印象を与えた。
現代は、死を遠ざけることで、あたかも死そのものが存在しないかのように振舞ってきた。いつのまにか死は穢れたものとして人々の意識から遠ざけられ、日常から切り離された場面に設定されることになった。病院での死、核家族化、福祉の充実は、それなりもっともらしい必然の理屈はつけられるだろうが、結局は「自分にも必ず訪れる死」を、自分とは係わりのない場面に置くことで、他者の死それも実感のない死として位置付けることになってしまったのである。
死についての実感がないというのは、逆にいうと死そのものを知らないということである。時に病に疲れ、老いに虐げられる死は、外から見る人にとっても決して心地よいものではないだろうけれど、肉体の死というイメージを伴わない頭の中の死は、結局、仮想世界(バーチャル)の死でしかない。
子供の頃、カブトムシの足をもぎ取り、トンボの尻尾に小さな花を差込んで飛ばすような遊びの残酷さは、私も経験している。ただそのことと、今の子供たちが、もぎ取られた足を接着剤でつなごうと考えていることとの間には、私には理解できないすざまじい断絶があるような気がしてならない。
2003.12.6 佐々木利夫
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