舌切り雀という題名は変だ、雀が切った訳ではなく逆に切られたのだから、「舌切られ雀」が正しいのではないかという屁理屈は、チャーハンを「焼き飯か焼かれ飯か」というのと同じようなレベルだからこの際置いておくことにして、このお話の要約はこんなところだろうか。

 「むかしむかし、気のいいおじいさんと、意地悪なおばあさんの夫婦がいました。ある日、おじいさんに可愛がられていた雀が、おばあさんが仕事で使っている洗濯のりを食べてしまい、その罰でおばあさんに舌を切られてしまいました。おじいさんは可哀想に思って雀のお宿を訪ね、おいしいご馳走や踊りの接待を受け、お土産に出された大きいつづら(衣服などをいれるかご)と小さいつづらのうち小さいほうを貰って家へ帰りました。つづらの中は金銀財宝ざっくざく。それを見たおばあさんが真似をして雀を訪ね、大きいつづらを担いで帰ったものの、中味はへび、むかで、化け物でしたとさ。」

 「欲張りは身のためにならないよ」と思ってもらえるのならば、この物語の理解は十分だということなのかも知れないが、この話をもう少し詳しく読み込んでみると、実はつづらを貰うためのハードルが異常に高く、しかもそのハードルとつづらがどのように結びついているのかが分からなくなってくるという現実にぶつかる。

 おばあさんが糊を食べたくらいで雀の舌を切り取るという残酷さを持ち、しかもその雀からおじいさんの真似をして宝物をせしめようと考えるはしたない強欲な人物であるという事実は、そういう設定なのだから認めるのにやぶさかではない。

 ところで、おじいさんが雀から宝物を貰えたのは、そんなにたやすいことではなかった。雀の所在を人に訪ねるたびに、最初は馬の洗い汁をおけに7杯、次は牛の洗い汁を7杯も飲まなければならなかった。しかもやっと見つけた雀のお宿の入り口は狭く小さく、散々苦労して通り抜けるのである。

 このテストはかなり過酷である。雀がおばあさんに対する報復としてそうした条件を課したとするなら分からないでもないが、誰からも優しいと認められ、見舞いに行っておばあさんの謝罪をしようとしているおじいさんに、こうした試練を課すのはいささか疑問である。

 さて他方、おばあさんはどうしたか。おばあさんは馬の洗い水も、牛の洗い水も飲むふりをしただけで飲まなかった。それでもどうやら雀のお宿の場所を聞き出して見つけることができるのである。小さな入り口などあっさりと蹴破ってしまう。そして食事も踊りも要らないからといきなり土産を要求し、大きいつづらを背負って帰る。しかも途中で開けるなという雀の忠告にもかかわらず、これを無視してつづらを開け、ご存知、へび、むかで、化け物の登場となる。

 だがここで疑問が生じる。おばあさんはおじいさんの実行したハードルのことごとくを拒否した。しかもそれ以前に雀の舌を切るという残酷な行為まで行っている。ここでまず、おばあさんのとった、おじいさんとは正反対の行動を見てみることにしよう。

 @ 雀の舌を切った。
 A 馬の洗い汁を飲まなかった。
 B 牛の洗い汁を飲まなかった。
 C 宿の入り口の戸を蹴破った。
 D 雀の作ったご馳走を食べなかった。
 E 雀の踊りを見なかった。
 F 大きいつづらを選んだ。
 G 途中でつづらを開けるなという忠告を無視した。

 おばあさんに与えられたつづらの中味は、果たしてこれら@〜Gまでのどれに対する罰だったのだろうか。それともその全部に対する加重犯としての結果だったと考えるべきなのだろうか。

 雀は大小のつづらの選択をおばあさんに委ねるとともに「家へ帰るまで開けるな」と忠告している。この選択と忠告はおじいさんに対しても同様である。と言うことは、雀は@〜Fについては既にその罪を許していると理解してもいいのではないだろうか。
 つまり、既につづらの中味が、渡した時点(おばあさんが選んだ時点)で決まっていたとするならば、途中で開けようが家へ帰ってから開けようが同じことであり、そうでなければ「途中で開けるな」と言う忠告の意味がなくなってしまうからである。
 忠告の意味するところは、従えば見返りにいいことがあり、従わなければ悪いことが起きるということだから、開けないで家まで持ち帰ればおじいさんと同様の効果、つまり「金銀財宝ざっくざく」が得られたというように理解していいであろう。

 ただそう考えると、それでは一体おじいさんに課されたA〜Fの試練の意味は一体なんだったのだろうかという疑問にぶつかる。おばあさんでさえ「途中で開けない」ことを守れば得られた財宝である。にもかかわらずおじいさんには、D〜Eは試練とまでは言えないかも知れないにしても、結果的に無駄なしかも厳しい試練が課されているのである。これではおじいさんに対して不公平であり、それ以上にどこか変である。

 だとすれば、昔話としての意味は、やはりおばあさんのとったすべてに対する報いだと考えることのほうが妥当するのではないだろうか。おばあさんは雀の舌を切るような残酷な人物であり、その行動のことごとくが社会性を損なうものであった、だからこその「へび、むかで」の結果であった、ということである。

 こう考えることは、先に述べた「途中で開けるな」の忠告とからめた考え方と明らかに矛盾する。そしてこの矛盾を合理的に解決しようとすると、実は一つだけとんでもない答えが見つかる。

 それは、結果は始めから決まっていた、始めからつづらの中味は決まっていた、ということである。つまり物語の上では行動の選択肢が色々あるようになっているが、おばあさんはどれを選んでも得られるつづらの中味は「へび、むかで」だったということである。
 そしておじいさんは仮に馬の洗い汁を飲まなくても、小さいつづらを選ばなかったとしても、途中でそのつづらを開けたとしても、結果として金銀財宝を得ることができたのである。
 それはまさしくあらかじめ決められたストーリーだったのである。行動する前から、おじいさんには「宝物」、おばあさんには「へび、むかで」が決まっていたのである。

 そのように理解するなら、この物語の寓意は、「性格の悪い奴は、どんなことをしても報われないよ」ということなのだろうか。そんな予定されたストーリーに沿って人生や報酬が決められるのだすれば、それこそ童話としての意味がなくなってしまうのではないだろうか。そうだとするなら、余りにもおばあさんが可哀想ではないだろうか。
 この話は色々な思いを伝えてくれるけれど、どうも今ひとつ辻褄が合わないというか、しっくりこないのである。
 私にはこのおばあさんがそんなに意地悪だとは思えないのである。おじいさんが完全無欠、天衣無縫の善人であることは分かる。でもそんな善人なんてこの世には居ないと思うのである。しかもこの物語は、善人と意地悪が夫婦という、童話としては非常に珍しい設定である。これは夫婦の物語なのである。

 おばあさんの雀嫌いは、もしかするとおじいさんの雀に対する可愛がりへの嫉妬だったのかも知れない。雀の舌を切った行為は許されないかも知れないが、それでも糊を食べるという罪を犯したのは雀である。おじいさんだって金銀財宝を喜んだのだから、おばあさんがどうして大きなつづらを選ばなかったのかと責めた気持ちも良く分かる。夫婦だからと言って常に同じ考えをするとは限らない。おじいさんの幸せを妬み、自分も宝物を貰いたい、できるならおじいさんより大きい宝物を貰いたいと考えたのも人間らしい行動だと思うのである。

 つまりこのおばあさんは、向こう三軒両隣、どこにでもいる当たり前の人間だったと思うのである。おばあさんは実は私であり、あまり認めたくないと思っているかも知れないけれど、恐らくあなたにだって心のどこかにそうした微かな気持ちを持っているのではないか、つまり同類ではないかと思うのである。

 この物語についてネットで探していたら、原話はこんな結論だったという説を見つけた。それは「化け物に襲われ、おじいさんに助けられたおばあさんは、それから人が変わったようになりました。癇癪も起こさず、村の子供達を怒鳴りつけることもなくなり、思いやりのある人間になりましたとさ。」というものである。

 人は年齢を重ねることによる頑迷さをどう克服していくのか。己の中に潜んでいる頑迷を、「へび、むかで、化け物」という形で実体化させ、それを見据え乗り越えることで老人もまた成長できるのだという、そうした寓意をこの舌切り雀は伝えようとしているのかも知れない。童話ではなく、老話?として・・・・・・。


                       2004.09.28    佐々木利夫


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