小学生を対象に行った国立天文台の最近の調査で、約4割の子供が、「太陽が地球の周りを回っている」と答えたとのことである。マスコミも識者も、子供の理科離れに嘆くことしきりである。
 私もそのことには同感しているのだが、心のどこかで「それもいいじゃない」と密かに快哉を叫んでいる自分を感じていることも事実なのである。

 私だって天動説、地動説のどちらを正解として選ぶかと問われれば、それは当然に地動説に○印をつけることに疑問の余地はない。SF小説に今でも胸躍らせているこの身にとって、「太陽系第三惑星、地球」の一言は、今だって夢見る少年時代をたちどころによみがえらせてくれるし、書棚に眠る五百冊を超えるハヤカワ文庫を中心としたSF蔵書は、そうした私の夢の軌跡でもあるのだから。

 ただ、そうした地動説を信じている根拠はと聞かれれば、「地球が太陽の周りを回っている」ことを単に知識として教わったから信じているに過ぎないのではないかと思っている。
 だから、知識を離れた私の気持ちの中では、「どう見たって、太陽は東から出て西へ沈む」のだし、毎日毎日、私が生まれてからこの方、そして更に思いを馳せるなら、その前数百年、数千年、数万年それ以上にわたって太陽は同じように地球の周りを回っていたのではないかとの思いが強いのである。
 つまり、私の感覚は、太陽が地球の周りを回っているという天動説で組み立てられているのではないかと密かに思っているのである。

 早い話、日の出、日の入りは、まさに太陽が動いていると考えたことからくる概念であり、生活体験そのものなのではないだろうか。
 時刻だって、太陽が最も高い位置に来る時を正午と定め、次にその位置に来るまでの時間を一定の間隔で並べたものではないのか。そうだとしたら、時刻もまた太陽が地球を一回りすることを前提にした約束事であると考えてよいであろう。

 もちろん、「それは見かけ上の現象だけであって、科学的な説明にはなっていない。」と言われればそのことに反論の余地はない。
 しかし、考えても見て欲しい。あなたが地動説を信じているのはいい。でもあなたは、地球が太陽の周りを回っていることを科学的に確かめたことが一度でもあっただろうか。少なくとも私の学んできた学校や書物からの経験によるならば、とてもそうは思えないのである。「地球が太陽の周りを回っていることを実際に確かめよう」などという話は、これまで一度として聞いたことも経験したこともないのである。

 もちろん科学的に証明する手段はたくさんあるだろうし、例えば惑星が恒星と違って、逆行する時期のあることなどは地動説でなければ説明がつかないことも分かる。
 でも、「今の私の力では」という条件付きではあるけれど、私には地球が太陽の周りを回っていることを証明することができないのである。そしてそれはきっと、あなたにも・・・・・、とも思っているのである。

 それに対し、天動説ならいくらでも証明できる。いやいや、証明以前の問題である。現に太陽が私の周りを回っていることは、まさに私の経験であり、あなたの経験であり、他の大勢の人を含めた公知の事実だからである。

 だから私は、あなたが地動説を信じているのは、あなた自身の経験や観測によるものではなく、単に「そのように教えられた」からだけなのではないかと思うのである。あなたは自分自身の実感を無視して、それとは異なる結論を頭の中でだけ理解しようとしているのではないだろうかと思うのである。

 もちろん、我々の得た知識が、すべて自身の中で経験として確立されたものばかりであり、実証された上で理解され、整理されているなどとは決して思ってはいない。むしろ、経験外のこととして見たり、聞いたり、学んだりしてきたこと、単なる知識として形成されてきたもののほうが、ずっと、ずっと多いだろう。

 それでも自分の経験できない分野を補完して信じることと、目の前に明らかに自分で実感できる事実があっても、それを否定して新たな事象を信じると言うのは、実はとても難しいことなのではないかと思うのである。例えば地球が丸いこと、例えば南半球の人間が宇宙の下(?)に落ちていかないことなどなど・・・・。

 やがてその約4割の小学生も、そのうちに天動説を信じていた自分の誤りに気づくことだろう。
 そして私は、いつ読んだのだろうか、シャーロックホームズもまた、天動説を信じていた一人だとするドイルの探偵小説の中の一節をふと思い出す。

 だからというわけではないけれど、私はこの小学生の一団に、密かにエールを送りたいのである。それは、もし彼らから、「それなら、どうしたら地球が太陽の周りを回っていることが分かるの?・・・・・」と聞かれたら、聞かれた大人は、一体どうやってそのことを説明し、証明するのだろうか。私にはできないし、あなたにも多分・・・、できないのではないだろうか。

 私はこの誤った回答をした小学生を弁護したいと思っているのではない。間違った答えを正当化するつもりもない。ただ、天動説は生活実感であることを大切にしたいと思っているのである。
 地動説はあくまでテストの回答用であり、星空を眺めたり、夕焼けに思いを馳せたりするときには、天動説のほうがずっと良く似合うと、そんな気持ちのゆとりが欲しいと思っているのである。

 そして更には、こんな考えは不遜なのかも知れないけれど、「太陽が地球を回ること」も「地球が太陽を回ること」も、意味として同じなのではないのだろうかとも考えているのである。
 電車に乗っていて、停車している向かいのホームの電車が動いたと思ったとき、実はそれは錯覚で自分の乗っている電車が動いていたという経験はないだろうか。

 私はどちらも正しいのではないかと思っているのである。「相手の電車が動いたこと」と、「乗っている私の電車が動いたこと」とは実は同じことで、ただ客観的に相手の電車が動いていたときには、乗っているこちらの電車が動いたと理論づけるためには、単に私の電車のみならず、地球ごと動かすような方程式が必要であり、それよりは相手が動いたとの方程式を作ることのほうが、より簡単便利であるに過ぎないからなのではないのだろうかと思っているのである。

 地球が太陽の周りを回っているとの考えは正しい。しかし、正確に言うなら太陽だって静止しているわけではない。太陽は、約二千億個の星の集団である直径約10億光年の巨大な銀河に所属しており、そのなかでも太陽は中心から3億光年の端のほうに位置して、しかもその銀河はゆっくりと2億年(ゆっくりとは言っても秒速225キロメートル)かけて回転しているのである。そしてそうした銀河そのものが素人目には恐らく無数と言っていいほどの1000億個も存在し、それぞれ回転し、膨張し、生成と消滅を繰り返しているのだと言う。

 軌道計算と言うのは何かを静止させ、それを基本に方程式を組み立てるものである。そうしたことを前提とするなら、つまりは地動説と言えども、太陽系と言う小さな枠組みの中の当座の説明でしかないと言うことなのである。
 お分かりですかね。実は言ってる私もほとんど理解できないでいるのですが・・・・。



                            2004.010.18    佐々木利夫


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