「何日も前から七夕の短冊に、『空を飛べますように』と書くつもりだと張り切っていたのに、学校の先生に『人間はどんなことをしたつて空を飛べないから別なことを書きなさい』と言われて、『勉強がうまくなるように』と代えた。空想豊かな6歳の息子にもっと夢を与えて欲しい」。
こんな投稿が新聞に載っていた。夢を忘れた大人の先生への母親の嘆きである。
言っている意味は分かる。不可能な想いは無駄なのだと割り切ることは正当かも知れないけれど、それは余りにも索漠とした考え方ではないかと思ったのだろう。
でもこの母子の想いをこんな風に言い切るのは厳し過ぎるかも知れないけれど、少し引いて考えてみると、先生と言うのはこんな風に言わなければならない時代になっているのではないだろうか。
仮に先生がこの少年の夢を「子供らしい夢」として「承認」し、またはそれを「後押し」したとしよう。先生は少年に言う。「そうだね。本当に飛べるようになれればいいね。頑張れば飛べるかも知れないね」。
なんと優しい先生であろう。子供の夢を理解し、大きく育てるかけがえのない先生であることか。
そしてその子は「教室の窓から空へ向かって飛ぶ」かも知れないのである。飛べるようになりたいと神に祈り、先生も親もそのことを応援してくれたのだから。
現に、私の小学校時代のことだけれど、教室の二階や木の枝から飛べると思った奴が確かにいたのである。そいつはそして飛んだのである。骨折と言う対価を払ったけれど、試してみる価値があると信じたのである。
さて時代はそれから50年余の現代である。テレビゲームでは、リセットするか教会で金を払うだけで命はあっさりと復活する時代である。呪文で人は空を飛べる時代である。子供が飛べることを信じたからと言って、誰がそれを非難できようか。
この新聞のような事例の場合、先生は、夢は夢としてそのように短冊に書くのを認めたうえで、「でも現実には飛べないのだから、飛べるような道具や装置や技術を大人になって考えてみようね」とか、「実際に窓や木の枝から飛んだらだめだよ」と諭すことも可能であったかも知れない。
もし子供が空を飛んで怪我をしたり死んだりしたとしたら、今の時代、親や学校や社会は、「飛びたい」という子供のタワゴトを、「きちんとコントロールしなかった先生の指導が悪い」と批判するのではないだろうか。
ましてや「飛べるようになればいいね」などと無謀な夢を後押しするなんて、もっての外だと、教師を責めるのではないだろうか。
仮定を連ねておいて、次の言葉を、「そうだとすれば・・・」とつないでゆくのは、余りにも身勝手すぎる理論展開になってしまうのは承知の上だけれど、最近の国家賠償事例などを見ていると、なんでもかんでも管理責任を問う風潮が強く、こうした考えはあながち身勝手ではないような気がしている。
だから、「そうだとすれば」、無謀な夢や危険な夢は最初から潰しておかなければならないと、先生も自己防衛上考えたってちっとも不自然ではない。
それはもしかすると、保身につながる心の狭さかも知れないが、今の社会ではどんなことにもスケープゴードを必要としているから、何と批判されようとも危険は事前に回避したほうがいいのである。
子供は川の近くに連れて行かなければいいのである。川の自然としての必然性だとか、川辺の生物と命の大切さなどと理想的な教育を考えて連れて行くから、先生の責任による川の事故が起きるのである。危険の予防策をしっかりしてから連れて行くことのほうが大切かも知れないけれど、外形的にも内容的にも危険に近づけないこと、これが現実的な対応にならざるを得なくなっているのである。
なにもしないことは、先生にとって「いいこと」ではないかも知れれないけれど、罪にはならないのである。
この先生は、この対応で、母親から子供の夢を壊したと思われてしまった。でもそのことでひとまず、空を飛んで怪我をした少年の両親からの損害賠償請求をかわす事ができたであろう。
でも考えて欲しい。少年の空を飛びたいという夢はこんなことで壊れてしまうのだろうか。そんな先生の一言で、少年の夢はあっさりと消えてしまうのだろうか。そんなことでつぶれてしまう夢なんて、本当の夢ではないのではないか。
少年は何日も前から祈っていたのである。そんな夢が、先生のたった一言で将来も含めてすべて空虚になってしまったと母親は考えているのだろうか。
「夢を追うことは常に正義だ」という単純な発想を基本に置いた母親の、この教師に対する嘆きを評価する前に、教師がなぜそうしなければならなかったのかという現実を、もう少し理解してやる必要があるのではないだろうか。
子供の夢を育てるのは先生だけの仕事ではない。先生も大切だけれど、それ以上に親が育んでいかなければならないことだと思うのである。
教師への過大な期待みたいなものが最近は強くなっているように感じる。教師だけではない。他者に対する依存度というか責任転嫁という気持ちが、現代人にはとても強くなっている。自分は無関係な高みに居て常に可哀想な弱者を演じ、社会とか行政とかそうした他者に責任を負わせるという感覚が、現代人にはますます高まってきているような気がしてならない。
子供の夢を削いでいる一番の元凶はやっぱり親なのではないかと、日曜日に学習塾の駐輪場に集まってきている子供たちの群れを横目で見ながら、ふと思うことしきりである。
ところで、最近見た教育テレビの子供向けドラマ「虹色定期便」は、廃車バスを秘密基地にしている小学生の物語だった。色々な事情でその基地は取り壊されてしまう。でも、どっこい、この子供たちは、近くの木の上に新しい秘密の基地を作るのである。
少年万歳・・・・・。この歳になってやっと自分の秘密の基地を持つことのできた老税理士はひとりほくそ笑み、ドラマの少年を密かに応援しているのである。
2004.08.03 佐々木利夫
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