4月に入って、今年は特に早々と本州各地から桜の便りが聞こえてくるが、北海道の桜はまだまだのようである。そしてこの季節になると、偉人伝記の代表作の一つ、「ジョージ・ワシントンと桜の木」の話をふと思い出す。
 この話はワシントン死後の作り話だというのが本当らしいが、大切にしていた桜の木の枝が折れていることに気づいた父親が、周囲の人にその事実を問いただした時、息子ジョージが「自分がやった」と正直に話して誉められたという、あまりにも有名な話である。
 でも、この話は何度聞いてもどこか変だ。正直と嘘つきとどっちが良いかという二元論で割り切ってしまうなら、この話の教訓が分からないではない。
 だがしかし、こんなふうに言っちまったらおしまいかも知れないけれど、「たかが桜の木」である。彼の自白は、桜の木を傷つけたという比較的軽微な事件との対比における嘘か正直かの問題である。
 もしこの話が、「桜の木を誤って傷つけた」という、器物損壊という軽微な事件ではなくて、例えば殺人であるとか、放火などという重大な事件だったらどうだろう。
 家が焼かれ、その延焼で家族や近隣の人たちが死んでしまったと言うような重大な事件だったら、そして、「私が放火しました」と正直に話したのだとしたら、それでもその話しを聞いた父親は、わが子ジョージの罪を即座に許し、正直に話したことを誉めるだろうか。


 桜の木を切ったことの代わりに、殺人や放火を持ってくること自体が、極端すぎて非常識だと思うかも知れない。その批判は甘んじて受けるけれど、桜の木事件のもっとも問題なのは、「切ったことを正直に話した」という点にのみ焦点が当てられていて、切ったことの背景が何ら問題にされていないということである。
 つまり、「なぜ切ったのか」という、もっとも重要な視点が抜けてしまっているのである。どんな父親だって「正直に話した」ことだけで誉めるなんてことはない筈である。

 まず第一に「切った理由」を尋ね、その理由によってその後の処分、誉める叱るを決める筈である。
 桜の木を切った理由が、例えば父親に対する嫌がらせであったり、復讐であったり、はたまた、それ以外のとても人間として許されないような動機によるものだったとしたら、たとえ結果だけを正直に話したところで誉めるということには決してならないだろう。
 その反面、放火や殺人のような重大な事件だって、うまく説明できるような事例が見つからないけれど、場合によってはギリギリ許されるようなケースだってないとは言えないのではないだろうか。

 嘘を認めるというのではない。ただこんな形で、嘘と正直を対比させようとすることは誤りだと思うのである。だからこの物語は、気の抜けたビール同様、基本となるべき大切な前提が思いっきり省かれてしまっていて、教訓話にはならないのではないかと、密かに思っているのである。

 ただ、どんなこと言ったって、この物語は誰の批判も受け付けないまでに完成し確立したものとして君臨しているから、こんなところでぶつぶつ繰り返しても仕方ないのであるが、まあ、だれか同じ意見を持っているへそ曲がりが世の中にはきっといるはずだと、ほろ酔い男は、こんな考えにも酔っているのである。

                            2004.04.02    佐々木利夫


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