収入金額(収入すべき金額)

 所得税法は「収入金額」の概念を「…別段の定めのあるものを除き、その年において収入すべき金額(金銭以外の物または権利その他経済的な利益をもって収入する場合には、その金銭以外の物または権利その他経済的な利益の価額)とする」(36条)と定めている。ここから、次の三つの問題が生じてくる。第一は「別段の定め」の内容であり、第二は「収入すべき金額」の意味、そして第三に「経済的利益」の概念である。以下、条文の順序とは異なるが、「収入すべき金額」、「経済的利益」、「別段の定め」の順に触れてゆきたい。

1 収入すべき金額の意義

 これは更に次の二つに分けて考えることができる。一つは「収入すベき」の意味であり、もう一つは収入すべき金額をどの時点で判定するかである。
 つまり収入すべきとは法律的にどのような時点で、どのような保証を与えられた時に収入金額として認定するのかであり、もう一つは、所得税法が暦年を単位として所得というものを認識している以上、ある収入がいつの年分のものかということは極めて重要な問題であって、その根拠をどこに置くかがテーマとなろう。
 もちろんこの両者はそれぞれ分離させて考えられなくもないが、混然として相互にかかわりをもつ場合もあるので、以下特に区別しないで論述してゆきたい。

 会計学的にみて、収入の計上時期に関しては、古くから発生主義及び現金主義の二種類の考え方があった。ただ、現金主義を採用することは時間的に継続する様々な取引を、一定の期問に区切って計算する税法においては明らかに不合理であると考えられていた。もっと正確な考え方として、基底となる取引が現金を受け取る前にあるとする考えである。

 つまり、取引があったかなかったかという、要するに所有権の得喪という事実が、現金を受渡す以前にあって、その取引の一段落がついた時点でどの年分に属するかを区分しようとする考え方であり、これが発生主義の底流であるとしてよいであろう。
 そうしてこの発生主義の合理性は商取引での通念ともなり、経済社会を対象とする税法へと浸透していったものであると考えられる。そして更にこのことが、「収入すべき金額」というような「すべき」という表現となり、「収入した」という観念とは明らかに違うことを立法的に明示するようになったのである。
 しかし、発生主義を採用するとしても、個々の取引の発生の時期は、その態様が千差万別であることもあって、具体的な判定には困難な問題を生じるケースが少なくない。

 この解決として用いられはじめたのが、いわゆる「権利確定主義」と呼ぱれる用語であり、発生主義の代用語として「権利発生主義」とともに慣用的に用いられてきたのである。
 この概念、即ち「権利確定」は、これまでの発生主義という抽象的な問題に対する明らかな解決であると考えられたほどの単純明解さをもって社会に迎えられたことは事実であり、また、現実にこれにより多くの具体的解決が図られてきたことも事実である。

 このことは裁判例などでこの用語がしばしぱ用いられてきたことからも容易に推察され、ほぼ税法上も確立した考えであるかの観さえ呈したとみてよいであろう。しかし、徐々に権利確定の内容の決め方に問題が移るに従い、更にその中味を複雑にしてしまったとも言えるのである。

 たとえば売買契約の成立によって双方に権利義務の関係が生ずるから、契約の成立によって所得の発生があったと考えようとしたため、商品の売渡義務、代金の講求権をその時点でとらえてB/S上に資産・負債として掲げるとした。
 しかし、その契約内容が数ヶ月先の履行を約したものである場合に、契約の履行段階にいまだ入っていないのに、納税という関係についてそこまで解釈をさかのぼらせることが妥当かどうか…などの反省点も出てきたのである。
 更にまた、現行解釈上所得として認識されている、いわゆる不法・違法所得について、この法的に保護されない利得に対し、果して権利確定という観念がありうるのか…、逆に言うと権利が確定していなくとも所得として認識され得る場合があるのではないか…などの問題点が提起されてきたのである。

 そもそも権利確定なる用語は所得税法上明文となったことはないが、昭和26年1月1日付の旧基本通達において用いられたのがその稿矢である。その後、上述のような反省から改正後の旧基本通達2279において「・・・収入すべき金額の基礎となった契約効力発生の時、請負については引渡基準又は完成基準」が新しい解釈として採用されたのである。そして昭和45年には、この権利確定なる用語は基本通達上からその姿を消すのである。

 しかし、それにもかかわらず依然として「収入すべき金額」の意味は確定概念化され得ず、「資産の売却は売買契約時、商品・製品は引渡時」(旧法人税基本通達249)であるとか、「相手方の同時履行の抗弁権の消滅時」とか「公正妥当な会計処理の基準」(法人税法第22条4項)などの模索が続けられている状態と思われる。

 裁判例も用語、意味とも必ずしも統一的に用いられている訳ではなく、「法律上効力を生じた時」、「弁済期の到来時」、「収入する金額の確定する時」、「法律上収入すべき時」、「所得実現の可能性の高い程度に熟した時」、「収入すべき金額の確定した時で法律上これを行使することができるようになった時」、「権利確定主義」…など微妙なニュアンスの違いをみせている。
 ただ、これらの判例をみて感ずることは、やはり法律的な権利確定というものに、その判断基準を置いているとみてよいような気がする。ただ、そのように断定的に考えることの妥当性に疑問を感じてきたのか、その後の裁判例(昭43年以降)ではこれらのニュアンスが影をひそめてきたことは注目に値する。

 このことは結局、単に企業会計的な意識から所得税法を画することの困難性をもあらわしているとみてよいであろう。即ち、企業会計よりも極めて多様な取引の性格といったものを、単に一片の条文で表示することの困難性のあらわれであり、継続する多様な企業取引から一時的・臨時的な取引にいたるまでのすべてを、単一の基準で律することの不可能性を示したものであるということができよう。

 つまるところは所得の概念というところにも帰着するところが多いのであるが、単に法的基準のみで判断するのは適当でなく経済的性格をその根底に持たざるを得ないという現実にかんがみ、経済的成果の生じた時を中心に収入金額の税法的意義を考えてよいのではなかろうか。
 この意味において昭和45年、基本通達は「権利確定」なる用語を削り、表面的には一歩後退の形にみられなくもないが、寧ろ社会の実情、経済的効果の実情に即した判断をするのが妥当であるとした点で流動性をもたせた訳であり、複雑な社会に、より対応しやすくなったとみてよいであろう。

 現基本通達は36-2以降にかけて、それぞれの所得についての「収入すべき時期」について様々な規定をおいているが、もちろんこれによっても現在の社会現象の全てをあてはめることは困難であろう。経済は常に規定よりも先行して流動してゆくのであり、法律にしろ通達にしろ結局は常に過去のものであることの宿命から逃れることはできない以上、各種所得の経済的意味を考慮しつつ法律なり通達の精神を生かしてゆく他はないであろう。
 そうしてまた、社会現象を経済効果として見、担税力を考える時には必然的に不法所得についても権利確定の概念を離れて適法性を問わないとした墓本通達36-1は、「収入すべき金額」の意味に十分あてはまるものとして世論の支持を受けるのである。

 要約するなら、所得が課税の対象となる時期に達しているとみるべきかどうかは、所得の発生原因たる事実に対する法的評価を離れて、経済上の成果の顕現に即して判断を下すべきであると考えられる。もちろん、有効な法律行為を介して経済的取引の行なわれている通常の揚合、法的評価と経済的評価とは一致し、前者は後者を認識する目安となるのであるが、所得認識の基準はあくまでも経済的評価によって決すべきものであろう。

 ドイツ租税調整法第一条第二項は次のように規定している。「(租税法の解釈)に当っては、国民思想、租税法の目的及び経済的意義、並びに諸関係の発展を考慮しなければならない」

2 経済的利益の概念

 経済的利益に課税するという考え方は、結局、負担の公平、担税力といった側面、即ち、上に述べた経済的評価という立場から要求されるものであろう。従って上述と重複することはできるだけ避けながら触れてみたいと思う。
 所得税法36条の「金銭以外の物又は権利その他経済的利益」の規定は、その最初の言葉からも分かるように金銭以外であり、しかも金銭を受けとったと同一の経済的効果を生じた場合には、その価格を金銭に評価して所得を認識するという考え方である。だから、商品売渡代金を、たとえば土地の引渡で行った場合が物であり、借入金と相殺した場合などが権利であり、更に代金を決済してもらうかわりに商品の買受者の所有する建物に無償で入居する場合などが経済的利益である。

 こう考えるなら、この規定は極めて当然のことを定めたものであり、しかも、合理的な規定であるといってよいであろう。しかし、この経済的利益というものをつきつめてゆくと、その概念は際限もなく広がってゆき、まとまりのつかないものになる可能性をも有している。
 つまり、「経済的利益」が果してどこまで所得を構成するものとして把握されねばならないかの問題である。一応の規定は基本通達36-15にあるが、通達はこれのみに限定したものでないことは文中「…次に掲げるような利益が含まれる。」として”ような”と明示を避けており、単なる例示・暗示であるところからもうかがい知ることができよう。

 経済的利益なる用語は昭和40年の所得税法全文改正に際して新たに加えられたものである。旧所得税法では「金銭以外の物又は権利」とのみしか定められていなかったのであり、確かにこの規定のみでは流動する経済社会を律し切れないことは事実であろうが、果してこの用語が法律的に十分熟し確立されていたかどうかは疑間である。
 「経済的利益」は所得税法36条以外に施行令80条及び同84条の2にも見ることができる。おそらくは当初、令84条の2が昭和42年に追加されたこととも考えあわせて、令80条のために設けられたとみてよいであろう。即ち、借地権等の設定に伴い通常より低利の貸付金の貸付を受けたり、または異常に高額かつ長期の敷金等の授受に対して課税できなかった、いわゆる三越デパートの事案がその直接の動機であると判断される。

 確かに、例えば高額でしかも返済までの期間が長期であるような敷金を無利息で受け取ったような場合、その受領額を複利で計算した現在価格を金融機関などに預けておくならば、弁済期には敷金総額に等しくなっているから、そこに敷金総額と金融機関等に預けた額の差額に相当する利益があったと考えることはあながち不当とはいえないであろう。

 この意味において令80条は相当であり、詳しく触れる必要もないと思われる(もちろん、この中にも興味ある事実は数多くあることは否めないとしても、少なくとも所得として認識するという判断の成立に対しては首肯できるであろう)。

 しかし、寧ろ令84条の2の示唆するところにこそ、経済的利益というものの様々な形態の可能性がうかがわれるとみてよいのではなかろうか。もちろん、令84条の2はそれほど複雑な規定ではない。俗っぽく表現するなら、「ただ同然の家賃で社宅に住んでいる人には、その人に家賃の分だけ所得を上積する」というものである。これについては恐らく何人もが納得できるであろう。
 その納得できる根拠は、同じ所得であっても通常の家賃を払っているAと、上記のようなBとは明らかに担税力に差があるのであり、Aから家賃を差し引いて課税するかまたはBに通常の家賃分を加算して課税するかの立法上の位置付けはとも角、税負担に差を設けることは当然であると考えるところにあるとみてよいであろう。とするなら、この経済的利益なる概念は本来こういう点から求められなければならないのではなかろうか。

 担税力とそれに応じた税負担…ここに経済的利益に課税するという本質があるのである。だからこそ、基本通達36-15も限定的に述べるのを避け、抽象的にのみ表現しているのだと解さねばならないであろう。

 しかし、これを追求してゆくことは同時に際限もない泥沼にはまり込むような危険性をも持っていることに気づく。もちろん、帰属所得といったものもその外延として必然的に触れなければなるまいが、単に経済的利益に限ったところで問題が素直に解決する訳ではない。所得の重さの位置づけの問題がそこに必然的にあらわれてくると考えねばならないからである。

 たとえば、先に引用した無料の住宅への入居の場合は課税することにそれほど疑問はないにしても、それでは会社の社宅・寮などへある程度強制的(持家というものは誰もが簡単に持てるものではないから、社宅入居は間接的な強制となるかも知れない。)に入居さぜられ、しかも家賃が極めて低額であつた場合、またはその会社の製品を市価より若干安く購入した場合、集団的に寮生活をしたために食事代が安上りになった場合の利益…にまで課税することについては、そこに一種の経済的利益は発生していることに疑義はなくてもためらいが感じられるであろう。
 そして、つきつめて考えてゆくなら、物価の高い地区に居住するAと、安い地区に居住するBとの差、又商品なりサービスなりの提供を受けるに便利な位置にいるCと不自由な位置にいるD、更には商品なりサービスなりの情報を多く得やすい立場にいるEと然らざるF、各人の生活上の好みによる差・・・。つまり、同じ所得でも、それぞれの立場によってその所得の重さに違いがあるということである。

 結局、各人の生活の好みといった極めて個人的なものから、地域的な価格差、環境といった社会的問題にいたるまで、もし、担税力という点にのみ着目するならば様々な差があるはずであり、これらを全て税法上考慮すべき必要はないとも思われるが、所得というものをどうとらえるかの点ではやほり見逃せない要因となるのではないかと思われる。即ち、経済的利益は金銭的価値に表現できるものでなけれぱならないから、その妥当性がまず問題となるであろうし、また、たとえ金銭的に評価できたとして、どの段階までを課税所得とするかの問題は依然として困難であろう。経済的利益という用語はまだ法律的に確定していなく、今後学説なり判例で次第に形成されてゆくものなのであろうか。

3 別段の定めの内容

 これの内容としては、棚卸資産の自家消費や贈与、低額譲渡、みなし譲渡、農産物の収穫基準、更には所得税法65条〜67条に規定する延払基準販売、長期大規模工事の進行基準、小規模青色申告者の現金主義の採用、などがあげられよう。これらの規定についてはそれなりの興味深い点もあるが、結局は社会一般の経済憤行なり実態に所得税法が画一基準をあてはめるのでなく、ある程度流動的な態度をとろうとしたものであると考えることができ、1で述べた経済的評価というものを重視した結果であるといえよう。

 しかし、自家消費やみなし譲渡、農産物の収穫基準については一応上記の目的に含まれるとはいっても、一種独特な形態をそこにみることができるので、少しく触れておく必要があると思われる。

 @ 自家消費は現行規定上、「…消費した時におけるこれらの資産の価額」をもって収入金額に計上すべきものとされ(39条)、この金額は他の規定における用例からみても通常の販売価格であることは明らかである。商人が棚卸資産を自家消費する時、果して売価で消費したと考えることは合理的であろうか。むしろ、仕入価格により消費したと考える見方のほうがより合理的なのではないだろうか。…とするなら、法が売価で計上する旨の規定をしたのは、どこにその原因があるのであろうか。
 それはとりもなおさず、この自家消費の中にもし通常の、店主以外の者であるならば当然支出しなければならなかったであろう金額を考え、その差額をもって経済的な利益が発生したと認識した結果であると考えられる。しかし、この考えは営業以外に付加価値が発生したと考えることには世論の常識とはあわない面があるとの観点からであろう、通達では取得価額以上の価額が付してあればよいというように取り扱われている。

 A 農産物についても自家消費と同じく、時価を基準としていることは上と同じ意味を持つものであろう。ただ、それにしても、なぜ所得税法41条は収穫基準を採用したのか…の点については必ずしもこの理論では説明されないであろう。これは我国固有のものなのか文献をさぐる余裕がなかったので、あやふやな考え方しか持ち得ないが、日本の農業のサイクルが一年であり、年末まで、つまり冬の前に一年の収穫が終わるというところからくるものではないか・・・との感じがしないでもない。春夏秋冬という完全に変化する四季の中で主として米作という中心をもつ農業が収支の簡便さを要求したとみるべきなのかもしれない。

 B 所得税法59条のみなす譲渡の考え方は、種々の収入金額のなかでひときわ異彩をはなつものであるとみてよいであろう。この規定の中には、所得税法の基本的な姿勢が如実に含まれているといってよいような気がしている。そして納税者にとってこの考えは極めて観念的で理解し難い面を持つと同時に、担税力という考えとは真向から対立するものであると言ってよいであろう。
 現実に利益の発生がなく、また、同時に担税力も皆無であるこの財産の移転に所得税法はなぜ所得というものを認識したのであろうか。
 理屈は極めて簡単である。”資産の移転の際に、それまで生じていたキヤピタルゲインを清算する"というだけのことに過ぎない。ただ、所得税法はこのキャピタルゲインというものを譲渡所得、即ち、譲渡による所得という観念でとらえており、その面からキャピタルゲインの実現を収入金額として把握するのは、条文の字句上無理があったため、59条のみなし規定をおいたものであろう。
 しかし、ここに所得の発生を考えることには、納税者にも行政的にもなじみにくく、昭和27年には相続についてはみなし譲渡の課税をとり止め、37年には贈与についても「贈与等に関する申告書」の提出等を条件に、受贈者が贈与者の取得価額を引継ぐ方法の採用によって譲渡所得の課税が繰延べられることになった。
 そして更に昭和48年からは、原則として法人に対する贈与以外はほとんど課税されないこととなり、事実上極めて実効性の乏しい規定となっている。
 しかし、そうであったとしても、その意味するところはキャピタルゲインというものをどうとらえるか、更には所得というものをどうとらえるかについての基本的な考え方、所得税法の原点を示した規定であると私は考えている。

                 収入金額 (完)   佐々木利夫
  
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