むかしむかし、太陽と北風がどちらが世界一かの競争をしました。「通りかかった旅人のコートを脱がせたほうが勝ち」をルールにしました。
 北風はいくら吹いても旅人はコートをますますしっかり押さえるだけです。一方太陽はポカポカと照らしていくと、旅人はコートだけでなく帽子まで外してしまいましたとさ。
 この勝負は太陽の勝ちになりました。・・・・・・おわり。

 この物語の教訓は、「説得は強制に勝る」であるとされている。北風ピューピューが強制だというのはいいとしても、どうして太陽のポカポカが説得なのかよく分からない。ポカポカという言葉そのものに、そんなニュアンスもあるけれど、ポカポカならコートを着ていてちょうどいい具合だ。何よりもこの物語の結末は、旅人は裸になって近くの川に飛び込んでしまうことになっているから、それを考えるとポカポカよりもギラギラだろうと思うし、そうなら太陽もそれなり強制ではないかと考えてしまう。

 まあ、そうしたことは言葉上の屁理屈だから枝葉の問題として捨象してもいいが、この物語の最大の問題点は、勝敗を決すべきルールの設定にある。
 「コートを脱がせたほうが勝ち」というルールは、明らかに太陽に有利に設定されている。いやいや有利どころではない。完全に太陽の勝利を前提に設定されていると言ってもいいだろう。

 勝敗のルールは、その勝負が公平な立場でなされるという前提を置くならば、両者にとって対等なものでなければならないはずである。
 もちろんこの勝負だって北風がそのルールを承認したからこそ成立しているのだから、そのことにとやかく言うのは変なのかも知れない。

 しかし、この勝負を客観的に眺めてみよう。北風が勝つためには、単に風を吹き付けるだけでは不可能である。北風は風の力で旅人の着ている服を吹き飛ばすしかないのである。脱がすのではない、ボタンをちぎりとって風の力でそのコートを吹き飛ばすしかないのである。風で着ているものを吹き飛ばされたなんてことは、どんなすざまじい台風の話でだって聞いたことがないから、考えただけで不可能だと分かるだろう。
 一方、太陽は待つだけでいいのである。ジリジリと照らすだけでいいのである。暑くなったら上着を脱ぐ、これは子どもにも分かる常識である。

 コートの目的は何か。ファッションや怪我の防止など色々理屈はつけられるかも知れないが、常識的には寒さ対策であろう。寒いから上着を着、コートを着るのである。しかも現状での対象は旅人である。旅人がコートを着ているということは、その旅している場所がコートを必要とするほど寒いということである。

 北風が持っている力は何か。風を吹かすことである。しかもこれは北半球の話だから、寒い風を吹かすことである。だからこの勝負は始めから決まっているのである。

 ルールを「旅人の抱えているコートを着せる」ということに変更するならば、北風は何の苦もなく勝てるのである。太陽のポカポカにコートを着せる力を持たせることはできないのである。それに反し、北風の強制だとされる力は、一吹きするだけで旅人の意志を自分に従わせることができるのである。

 後出しジャンケンのような、「絶対に勝つルール」で北風に勝った太陽は、果たして勝ったことを自分にきちんと言い聞かすことができるのだろうか。我々が太陽に抱くイメージは、優しさとか慈愛である。太陽と北風を対立要素として捉える必要もないとは思うけれど、この二つを並べてみると、物語を読む前から我々は太陽の味方である。

 なんたって太陽なのである。太陽は世界共通、万古不易の善なのである。太陽を神とする宗教は、世界にどれほどあるのだろう。ちょっと考えたって天照大神(日本)、ラー(エジプト)、スルヤ(チベット)、ヘリオス(ギリシャ)、インティ(インカ)などなどいくらでもあるし、キリスト教だって創世記は「光あれ」で始まっているのである。

 北風がズルをしたのなら許してもいい(これは理屈ではなく私の勝手な感覚です)。でも太陽には常に正義の衣がまとわりついている。だからこそこんな姑息で子供だましのような手段で勝ってほしくないのである。誰が見ても公平と思えるようなルールで、正々堂々と勝負してほしいのである。

                       2004.07.12    佐々木利夫


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太陽と北風