昔のことを懐かしがるのは老境に入ったことの証かも知れないけれど、経済が発展し人々が豊かになり、企業がこれでもか、これでもかと隙間を狙って新しい商品やサービスをまき散らしてくると、人は結果だけを享受し、途中経過を忘れてしまう。

 途中経過を忘れてしまうと言うことは、単に忘れることを意味するのではない。途中経過がなくなってしまうことなのである。

 もちろんかく言う私にしたところで、その渦中にいる訳だし、「昔はこうだった」という思い出そのものだって、それ以前の歴史、または私よりも恵まれない環境にいた人々と比べるならば、もっと苦労した手順を踏んだ者が多数いたであろうことは当然のことだから、そんな大きな口は叩けないのかも知れない。
 
 だからそれは程度の問題であり、結局は「目くそ鼻くそを笑う」程度のことなのかも知れないが、それでもスイッチポンで答えの出てくる現代は、大切な途中経過を喪ってしまったことで、それまでの人々が築き上げてきた貴重な財産を捨ててしまっているような気がしてならない。

 ストーブをたくというのは、私の場合で言えば、燃えやすい紙や白樺の木の皮の上に、細かく割った薪をのせ、そして回りに石炭を置いて静かに火をつけるのである。こごえるように寒い室内での作業である。

 飯をたくというのは、冷たい水に手をひたし、米を何回も何回もとぎ、火加減を見ながら仕上げるのである。「始めチョロチョロ、中パッパ・・・・」は、うまい飯をたくための大切な呪文なのである。

 水を飲むためには、外水道から天秤棒にバケツ二つをぶら下げて、台所の水がめまで何回も運ばなければならないのである。

 大根やナスや人参、キュウリ、馬鈴薯、豆類などなど、多くの野菜は遠くの畑へ、便所から肥料としての糞尿を天秤棒で運び、草をむしり、その結果として秋の実りを迎えるのである。

 炭鉱マンの家族には地区、地区に大きな公衆浴場があったから、私の経験にはないことだけれど、きっと風呂焚きだって水汲みと湯を沸かすための努力は大変なものだったろう。

 このほかにも生活の中の手順には様々なものがあったはずである。麦粉をこねてイースト菌を植え付けてパンを作り、すいとんの団子を作る。うさぎやにわとりを飼い肉や卵を調達する。摘んだヨモギやふきなどの山野草はやがて食卓に並ぶ。そうした手順は途中経過の中に、結果を評価するための価値観があったのである。結果だけのイイトコ取りではなく、途中経過から学び、その結果としての充実した味わいがあったのである。

 子供の頃に読んだ、忍者や、武道家や、仙人になるための弟子入り修行に入った若者が、ただ、ただ、水汲みや廊下拭きに明け暮れる生活を続ける物語の中に、子供心にも修行の意味、そしてやがてそうした行為が花開くことを漠然とではありながら、理解することができたのではなかったのだろうか。

 手順を喪うと言うことは、物事の本質を忘れてしまうことである。一番大切な、そのものの意味を喪ってしまうことである。感謝を忘れ、労働の意味を忘れ、心を忘れてしまうことである。

                       2004.03.16    佐々木利夫


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手順喪失の落とし穴