天職と自分探し


 「自分探し」なんて言葉は、いかにも目的をしっかり掲げた格好のいい響きを持っているけれど、そんなことは誰だって自然にやっていることだし、多分、生きていることそのものが「自分探し」なのではないかという気がする。
 だから、目標もなく、何をしていいのかも分からず、「そのうちなんかしたいことが見つかるんじゃないかと思って」なんて話を聞くと、そんなもの自分探しでもなんでもないとつい言いたくなる。

 使い古された言葉だけれど、「人生はやりなおしがきかない」から、目標と結果とを対比し気に入らない場合はリセットしてやり直すということがそもそも不可能である。
 世の中に天職というのが理論的にはあるとは思う。ただその天職というやつを、それにめぐり合ったら何の努力も要らないまま幸せな人生を送ることができる仕事だなんて思い込んでいるような奴に出会うと、むしろ天職という言葉そのものを否定したくなる。

 むしろ努力し、苦労することに楽しみを見出せる仕事こそが天職なのだろうし、なによりもその職業(場合によっては趣味でもいい)を天職に育て上げていくという努力のほうが大切なのではないかと思う。天職とは何も楽な生活や、世の中から成功者としてのラベルを与えられるという性質のものではない。その仕事に触れることを当たり前と感じることの背景に天職は存在するのだと思う。

 「人生は…」なんて大げさに言うつもりはないが、生きているということはけっこう「つまづき」の多いものだし、「これでいいんだろうか」と心が沈むことも多い。それはやがてなるようになって自然に解決されていくのだけれど、人はなかなか「行雲流水」の境地にはなれないから、それなり悩んでしまう。

 おそらく天職と呼べるものはその人その人に生まれながらに存在しているのかも知れない。そして人生経験の未熟な年齢で、天職というものを十分理解できないままに仕事を選びそれに埋没してしまうということは、逆に言うと天職にめぐり合うチャンスを逃していることでもあろう。だから天職を探し続けるということは、その人がたった一つの命としてこの世に生を受けてきたことの一種の義務だというように理解できなくもない。

 しかし、この場合の致命的かつ過酷な条件は時間である。リセットの効かない人生は、「今」をもう一度やり直すことはできないから、やり直しの「もう一度」は、昨日までの時間に積み重ねていくしかなく、時間の積み重ねはそのまま年齢という万人に分かる形で確実に表われてくるのである。

 最近のテレビで、サラリーマンとしての営業担当にも、製造業の工員にもどこか馴染めないと感じた男が転職を繰返し、結局ふるさとに戻って父親の漁業を手伝うことになり、「ここには自然がある、生き甲斐がある」と語っている番組を見た。

 本人がそう言ってるのだから、無関係な第三者がとやかく言うことではないけれど、資本もなく経験もない三十を過ぎた男が、結局は丸ごと抱えてくれる親のところへ転がり込んできただけの話ではないのか、もうこれ以上後がないから自然だの生き甲斐だのと苦し紛れの小理屈を言っているだけではないのかと、少しばかり腹が立った。

 でも、「やっと自分のスナック開店してさぁ、客が一人も来なくてね。棚のボトル自分で飲んで、一人で酔っ払って……、そしてそのまま夜が明けたってことあるんだよね」、なんて話しを聞くと、どう会話を続けたらいいのか分からなくなる。
 もちろん場末とはいえ店を続けられたのだし、それはそれなり馴染みの客もつき、ほどほどの商売をやれたからだろうとは思う。でも、こうした客の一人も来ない夜のみじめさには、恐怖というのとは別だろうけれど、底知れぬ膚寒さを感じてしまう。

 さて、我が身はどうか。18歳でまったく未知の税務署という職業を選び、40年を過ごし、そしてその延長で6年目の税理士生活を迎えた。この期に及んでいまさら天職でなかったなどとは口が裂けても言えないかも知れないが、長い人生、ある時は無能と落ち込み、ある時は優秀なのかも知れないとのぼせ、そうした思いの浮沈を繰返しながらの人生はやはり「天職」だったのだろう。

 そうだとすれば天職とは、「天から与えられた職業」なのではなく、「自ら馴染むことのできた職業」であり、「馴染むことに喜べた職業」ということになるのかも知れない。

 明日は大晦日である。年末のひとりの事務所は本当に静かで、テレビを消すと物音一つ聞こえない。そんな中で、この1年を振り返り、そして来年を思う時、少し感傷的になっている自分にふと気づいてしまうのは、大晦日と言う言葉のどこかに自らの老いを重ねてしまうからなのだろうか。
              
                    2003.12.30   佐々木利夫