寺坂吉右衛門


 忠臣蔵の物語をどこからどこまでと考えるかは諸説あるかも知れないが、一般的には浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかった事件を発端とし、四十七士による吉良邸討入りまでを指すと考えてよいであろう。
 もちろんこの後、赤穂浪士の切腹そしてその遺児らの島流しなどの処分と続いていくのであり、これも忠臣蔵を理解する上で大事なことだとは思うけれど、やはり討入りまでを大きな流れと捉えるのが一般的であろう。

 そうした時、忠臣蔵には入り口と出口に大きな謎が含まれているのである。
 入り口の問題は、既に述べたところであるが、なぜ内匠頭が上野介に切りかかったのかという、そもそもの原因である。
 そして出口の謎とは、これから少し考えてみたいと思っている、寺坂吉右衛門の話である。これは、世に忠臣蔵の浪士として知られている人数が、果たして四十七人であったのかどうかという問題なのである。

 普通我々は忠臣蔵の物語を「四十七士」と同義語のように理解しており、それぞれは「忠臣」であり、「義士」であるとなんの抵抗もなく思いこんでいる。

 まず人数に関する事実を述べてみよう。
 寺坂が討ち入り前にいなくなったとするのは、大石内蔵助・原惣右衛門・小野寺十内連署の寺井玄渓宛ての書状に、「14日暁までに彼は屋敷へ来なかった。身分の軽い者だから仕方がない」と記されていることを根拠とするものである。
  当時は夜明けから翌日の夜明けまでを一日としていた。「14日暁」とは15日未明のことである

 しかし、浪士の一人である富森助右衛門の記録によると、吉良邸を引き揚げる際の点呼では全員が確認されている。つまり四十七人が討ち入り直後に揃っていたということになる。その後一行は内匠頭の墓所である泉岳寺へ向かうのであるが、途中で吉田忠左衛門と富森助右衛門の二人が、討入りの顛末を幕府に報告するために仲間から離れて仙石邸に向かっている。
 そして泉岳寺に着いてから再点呼したところ、四十四人しかいなかったのである。そして以後、浪士の諸藩お預け及び切腹等の処分などはすべて、仙石邸への報告から戻ってきた二人を含めた四十六人で進んで行くことになるのである。

 討入り前の逃亡なのか討入りに参加していたとしてもその後に居なくなったのは逃亡なのか特別の密命によるものなのか、話は結論の出ないまま現在まで尾を引いているのである。

 討入り直後からこのことは識者の間で問題とされていたようであるが、それが再燃したのは、大正時代に徳富蘇峰がその著「近世日本国民史」の中の「義士編」において、寺坂逃亡説を掲げたことによるところが大きい。
 もちろんそれまでにも江戸から明治にかけて色々な人物による研究があったようであるが、特に徳富蘇峰は明治・大正・昭和を代表する言論人であり、様々な寺坂擁護の意見があったにもかかわらず逃亡説を生涯変えなかったこと、文豪徳富蘆花の兄でもあったことなどから、その影響力は特に大きかったと言えよう。

 寺坂吉右衛門は、実は浅野内匠頭の臣下でない唯一の人物なのである。四十六人は赤穂藩に仕えた武士であるが、寺坂だけは足軽頭吉田忠左衛門に雇われた足軽なのである。このことが話を更に混乱させることになる。
 つまり、寺坂以外の人物四十六人と浅野内匠頭とはそれぞれ直線一本でつながる、いわゆる直接の主従関係にあるけれど、寺坂と内匠頭とは吉田忠左衛門を介した二本線になる。だから、寺坂は赤穂浪士を義士であるとか忠臣などと呼ぶ場合に、どうしてもそこに主従関係から来る歯がゆさというか、靴の底から足を掻くような違和感みたいなものが生じ、極端に言えば「居なくてもさほど支障がない」というか、「逃亡したとしても、さほど不忠にはならない」というような微妙な立場に位置しているのである。

 さて、話を史実に戻そう。史実といつても、そのほとんどが伝聞の記録若しくはその記録を書き写したもの、更には記録そのものが贋作だという例も多い。したがって、残されている記録自体の写し間違い、聞き間違いなども含めて、どこまで本物なのか不明なものも多く、結局その真実性を巡って研究者の意見の対立が生じている。私にその検証をするだけの力は持っていないので、ここで真贋を判定しようとは思わない。一応信用されている記録によれば、次のとおりである。

 まず逃亡説の根拠であるが、先の述べた大石らの書状によれば寺坂は討入り前に逃亡していることになる。
 また、討入り後だとしても、彼の直属の雇い主である吉田忠左衛門が、「寺坂は不届者である。二度と彼の名を言ってくれるな」と話したと、討入り後大石内蔵助、吉田忠左衛門等17名を預かった細川家の世話人である堀内伝右衛門が、日記に書いていることから、その発言は、寺坂の行動が自分の意に反したものであることを示しているというのである。

 更に原惣右衛門が切腹の前に弟に送った書状で、「寺坂は討入り前まではいたが、どんなことで気後れしたのか、とうとう吉良邸にはこないで逐電した。…成敗してやりたい」と怒りをあらわにして書いていることも逃亡説を裏付けているとする。
 また、原惣右衛門が堀内に贈った「浅野内匠家来口上」の写しには、大石ら連署の中から寺坂の名を省き、「討入り前逐電」と書かれているとされている。

 この他にもいくつかの資料があるが、それらに共通していることはいずれも寺坂を悪人として扱っているケースであり、密命で抜けたのであれば誉めるはずであるのに、逆に非難しているのは、逃亡したからであるとしてその裏づけとするものである。

 ところで、これと対立するのが、大石内蔵助若しくは吉田忠左衛門に何らかの密命を受け、それを実行するために一行から抜けたとする説である。
 これは密命ということの性質上、おおやけに出来ることではないから、直接的な証拠となるものが見当たらないことは当然と言えるかも知れない。

 密命説の根拠は、状況証拠として、寺坂に密命を実行させるためには、討入りに参加しなかったことにしたり、足軽という身分を強調したり、更には悪人に仕立て上げて義士の埒外に置こうと考えるのは当然だとするものである。

 そして、まず泉岳寺の修行僧である白明が書いた見聞録や先に述べた富森助右衛門の記録、更には吉田忠左衛門が娘婿に送った「暇乞状」などから、少なくとも寺坂が討入り直後には現場にいた事実を証明し、八歳で奉公人となり、足軽として雇われてからも二十有余年にわたり吉田忠左衛門に仕え、長い苦難の末に討入りを実行した者が逃亡するはずがないという状況を作る。その上で、原惣右衛門の「成敗したい」の語は、記録の読み違いで、別の人物に向けたものであり、それ以外の記録からは寺坂を形式的に悪人として扱っているに過ぎないとする。

 このほか、「最後までお供したいと願った寺坂を忠左衛門らがいろいろとなだめて播州へ帰した」(忠左衛門の妻の手紙)とか、「これまで寺坂の行動を疑っていたことが恥ずかしい」(忠左衛門の妻の弟の手紙)、「寺坂のことは公儀も了解していてなんの咎めもないはずだが、寺坂のことはあまり話題にしないでほしい。また、寺坂の今後のことはよろしく頼む」(忠左衛門の娘婿に宛てた遺言書)など、逃亡でないことを窺わせる記録が多数あることも、それを補強している。

 肝心の寺坂吉右衛門は、自身では記録を残してはいないものの、その話したことを孫がまとめた「寺坂信行筆記」があり、その中で寺坂は「各人が手に手に松明を持って吉良邸に討ち入った」と話している。
 ところが小野寺十内の記録によれば、「火の明かりは世間をはばかるので、提灯も松明も持たなかったけれど、有明の月が冴えていて道を間違うことはなかった」とあり、そうであるとすれば寺坂の話は討入りを偽装した証拠となるのではないかとも考えられている。
 寺坂は討入りの後41年もの間生き続け、密命についてはなんら触れることはなく83歳で生涯を閉じている。

 こういう状況は、それだけであれば学者なり論者の論争ということで、歴史を学ぶ上でのよくある話のひとつというに止まっていると考えてよかったであろう。

 ところが、平成元年、赤穂市が別冊赤穂市史として「忠臣蔵」を公刊し、その中で、寺坂吉右衛門を逃亡者と断じるとともに義士は四十六人であるとしたことから、この論争は俄然政治的な色彩を帯びてくることになってしまったのである。

 これは結局平成四年に当時の赤穂市長が「義士は四十七士」であるとする見解を、市議会本会議で表明することで決着を付けたのであるが、肝心の市史の訂正はせず追録の中での表示に止めたことなどから、いまだにぶすぶすとくすぶっている。

 恐らく新しくて確定的な資料が発見されない限り、この論争に片がつくことはないだろう。既存の資料にしても、ある資料を贋物と判定するか本物と認定するかで、まるで逆の結論が導き出されるのだし、その真贋の判定には、判定する人間の思想や哲学が深く絡んでくるからなおさらである。

 例えば寺坂信行筆記にしても、「四十六人が切腹した後の記録であり、寺坂吉右衛門がどんなことを言っても誰も反証できないのであるから信用できない」と断じてしまえば、それまでのことになってしまうのである。
 討入った者は罪人であり、そのことが明白になれば命はない。そんな罪人を密使として使うだろうかという疑問もあるが、逆に言えば、だからこそ討入り前の逃亡を仮装したのだとも言えるのである。義士は四十七か四十六か、多くの人を巻き込んだまま、こんなところからも忠臣蔵のフアンは増えて行く。

 ただこうした色々な議論を見ていると、日本人は本当に忠臣蔵が好きなんだなと思う。 
 映画に歌舞伎に講談、落語、浪曲にまで、そして年齢層も幅広い。
 間もなく12月が近づいてくる。今年はどんな形で忠臣蔵を見せてくれるだろうか。

 かくして日本人の大好きな忠臣蔵は、史実であるとか異説を離れて、人々の想いの中で自由に成長していっている。それが、忠臣蔵の強みなのでもあろうか。

 

                2003.10.16    佐々木利夫