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化粧する女たち

 男だって風に吹かれて髪が乱れたり、人と会うときになどにはやっぱり櫛を入れたりするから、若い女の子が身だしなみを気にするのはむしろ当然といえるだろう。でも、今の時代の若い子の人の前での化粧はやっぱりどこか変である。
 いつだったろうか、地下鉄の座席の真向かいでいきなり口紅を塗りだした女性に出会ったときは、ショックだった。
 それは化粧していることそのものというよりは、私の中に女性は、例えば職場の化粧室での仲間などの場合は別にして、人前で化粧はしないものだという思い込みがあったからであろう。
 だから「化粧」という行為は、その場所に人がいないということであり、特に男の前で女は化粧などするものではないという、古い道徳観に支配されている私にとって、その行為はまさしくこの場に男がいない、つまり、私自身が男として認知されていないということを示していると考えたからである。
 まあ、60歳をとっくに過ぎたこの身にとって、若い女性から男と認知されるかどうかは客観的にはそれほどの問題ではないかも知れないが、それにしても多少なりとも男の端くれであると自負しているわが身にとってはやっぱり理不尽である。
 ところが、ところがである。とあるデパートの待合広場で、若いカップルが並んで座っており、その横で女性が化粧をしている場面に出くわした。
 隣の男性とどの程度親密なのかは知らないけれど、ともかくもカップルである。そうだとすれば、女の人前での化粧を「周りの人間を男として認知していないことによる行動である」と断ずることは誤りではないかとふと、気づいた。
 とするならば、この他人の目の前で化粧する女の姿というのは、実はとんでもないことの一種の表れなのではないだろうか。
 つまり、化粧する女は他者とのかかわりを否定でも無視でもない、単に意識しなくなっているのではないかということである。そしてそうした女がどんどん増えていくということは、「人が他者とかかわること」から遠ざかり、鈍感になり、あたかも他者が存在しないバーチャルな世界へとのめり込んでいることの表れなのではないだろうか。
 いやいや、女ばかりではない。地下鉄で化粧する女の姿は、どこか通路や階段にぺたりと座り込んでいる通称ジベタリアンの姿や、電車の座席を荷物ともども2−3人分も占領して足を投げ出している若者の姿、歩道をすれ違う相手を交わそうともしないでぶつかってくる若者集団の姿にも共通しているような気がする。
 確かに一人っ子が多く、けんかをする兄弟は少なくなった。学校の先生はセクハラだ暴力教師だと言われたくないから、生徒に触れることすらしないようになった。じいさんばあさんから独立した父も母も共働きだから、家の中は空っぽになり、隣近所に叱ってくれる老人も居ない。
 遊びに来た子供はゲーム機を持ち込み、それぞれ別々のゲームに熱中する始末である。
 現代は他人(ひと)が見えなくなった時代なのだろうか。他者とかかわらず、ひたすら「個」の中に埋没してしまうことを理想とする世の中になってしまったのだろうか。
 もしそうなら、他者とのかかわりの中でのみ成立する、平和であるとか環境であるとか、自然なんていう考えは、遠い見果てぬ夢になってなってしまったのだと考えたほうがいいのだろうか。
           2004.1.21  佐々木利夫
 
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