ウスバキトンボ(薄羽黄蜻蛉


 まだ群れをなすほどではないが、澄んだ空にトンボの舞う季節になった。このトンボは北海道でもごく当たり前に見られるけれど、北海道に住み着いているわけではない。4−5月に東南アジアから南九州を経て、途中で卵を生み成虫となり、世代交替して夏の終わりころやっと辿りつくのである。そして、寒さに弱いこのトンボは、成虫はおろか幼虫のやごも卵も北海道の冬の寒さを越すことはできない。

 つまり、このトンボは世代交替までして北海道へと向かい、しかもその成虫は北海道で産卵までするのであるが、その全部が冬の寒さの中で死滅してしまうのである。
 それにもかかわらずこのトンボは、毎年毎年飽くなき北上と全滅を繰返すのである。このトンボの歴史は知らない。種としての執念も知らない。でもこの絶望的ともいえる繰返しは一体何を意味しているのであろうか。

 挑戦と呼ぶには余りにも無謀であるし、無駄なあがきと呼ぶにはあまりにもひたむきである。現象的には種の保存とは無関係なレベルで、このトンボは何百年も何千年もの間、振出しに戻されながらも、北へ、そして更に北へと報われることのない悲壮な飛翔を続けて来たのである。そして恐らくはこれからも数え切れないほどの未来と世代を、執念ともいえる「無駄な努力」を続けていくことで自分の命、種としての命を重ねていくのである。

 報われることのない努力にはどうしても悲壮感が漂うけれど、一歩引いて人生と重ね合わせてみると、どんな人間だっていつもそうしてきたのだと、ふと感じてしまう。
 報われることは確かに喜びであるけれど、努力がいつも報われるとしたら、それもまた味気ないのではないか。努力には、「努力すること」そのものに含まれている喜びがあるのであって、結果は結果として、「ま、いっか」と自分を慰めること、それもまた努力の味であろう。

 もっとも「どこまで力いっぱい頑張ったか」と問われれば、「そこそこいいかげん」という答えになるのかも知れないし、そんなにしゃかりきに人生生きてきたわけではないから、いいかげんな努力といいかげんな結果とを、こんなひたむきなウスバキトンボに重ねてしまうのは、トンボに申し訳ないとも言える。

 三角山の頂上にもウスバキトンボが舞っている。このトンボが南下することはないから、「オーイ、どこへ行くんだ」と問いかけたところで無駄なことかも知れないけれど、汗ばんでいる肌に心地よい風とそれに乗っているトンボの姿は、今の自分の生き様を確かに承認してくれていると、自分勝手な理屈をつけて納得し、さあ、そろそろ事務所へ戻ろうか。