他人から見られることなく自由に行動できたら、どんなに楽しく、場合によってはどんなにか有利な情報を得ることができるだろうか・・・・、これが透明人間を考え出した人間の夢である。

 童話の彦一ばなしにある「天狗のかくれみの」は、とんち者の彦一がお人よしの天狗から、それを着ると他人から見えなくなるという蓑(みの、わらなどで編んだマントのような雨具)をだましとるところから始まる、透明人間のいたずら物語である。
 透明人間の物語は、このほかにもH.G.ウエルズの同名のSF小説であるとか、最近ベストセラーや映画にもなっているハリーポッターに出てくる「透明マント」など、あちこちに見られる。

 透明人間の最大の特徴は、他人はこっちの姿を見ることができないにもかかわらず、こっちは普通どおりに相手の姿を見ることができるという性質にある。
 もっともそれ以前に、衣服もろとも透明になるという不自然さはあるのだが、それはまあ、幽霊が着物を着ているのと同じで、そのことは別に考えることにして、透明人間に戻ろう。

 ところで最近、こんな子供の詩を読んで、透明人間にはもう一つの視点のあることに気づかされた。

   
 「とうめいにんげん」

    ねえ おとうさん/とうめいにんげんは/どうやって/はをみがくんかねぇ

                   4歳女児 16.07.20 読売新聞

 つまり、他人から見えないということとは別に、自分で自分が見えるのか、という視点である。この少女の素朴な疑問は、実は透明人間の本質に迫るものを持っている。

 ところで、「見える」とはどういうことなのだろうか。人でも動物でも、「見える」のは目を使っていることを意味している。もちろん視力のほかに相手の存在の確認方法として、例えば超音波の反射を利用する「こうもり」などの例やはたまた気配と言う感じ方もあるとは思うけれど、「見る」ことの基本はやっぱり目だろう。

 そうしたとき、見えるということは、目から入った相手の姿が、目のレンズを通して網膜に像を結ぶことを示している。網膜に結ばれた像を脳が特定のパターンを持つ映像として認識し、人や物として分かるということである。

 だから、透明人間が相手の姿を見ることができるということは、見るための装置として、少なくとも相手の像を結ばせるためのレンズと結んだ像を受けるとめるための網膜が必要となる。

 レンズは光を屈折させるためのものだから透明であってかまわないけれど、空気とは異なった屈折率を持った物質である必要がある。そうでなければ光は直進してしまって、像を結ぶことができないからである。そして逆に網膜は不透明でなければならない。結ばれた像を認識するということが見えることだからである。
 昔の写真館にあったような三脚のついた大きな暗箱カメラを想像してみよう。逆さまにしろ、写っていることが分かるのは、そのレンズによる像が結ばれる位置に不透明なすりガラスが置かれているからである。

 屈折率の違う物質は透明であっても、そこに物質の存在を感じることができる。ビニール袋に水を入れた場合や、夏の道路の陽炎、蜃気楼などのように、透明でも周りと屈折率の異なる物体は見えるのである。そして網膜は不透明でなければならない。

 そうすると、透明人間が完全に透明だとするならば、そいつは目が見えないということになる。相手に対して透明と言うことは、その体が透明であることと同時に、無色かつ屈折率が空気と同じでなければならない。目の部分に光を曲げるべきレンズに相当する機能がなく、像を結ぶための不透明な網膜さえもないとするなら、相手から届く映像情報は透明人間をまっすぐ通り抜けてしまうから、そいつは明かるさすら感ずることができず、真っ暗闇の中を手探りで動き回るしか方法がない、つまり目が見えないのである。

 だから透明人間に見ることのできる能力を認めようとするためには、少なくともレンズの機能と網膜だけは与えなければならない。何と恐ろしいことか、少なくともそいつは、「目に相当する装置だけは他人に見られてしまう」状態にならなければならないのである。その透明人間は、姿を見られることはないけれど、目ん玉だけがウロウロと空中を漂っているのである。

 ところで、自分で自分の姿が見えるのか・・・・・。見えるのはその物体からの光の反射があるからである。仮に目ん玉の存在だけ認めたとしても、透明人間は口も歯も透明である。鏡に向かっても、目ん玉はともかく、後ろの壁や家具などが見えるだけで自分の姿は見えないだろう。でも歯ブラシは見えるだろうし、歯を磨くときに鏡を見て口の位置を確認してから押し込むわけではない。触れる感じで口の位置は分かるだろう。それだけのことである。

 念願かなって実現したものの、見えないと言う現実を思い知らされた透明人間は、見えないことの意味をしみじみと味わい、透明人間であることの無意味さをゆっくりと感じることになるのである。そして「天狗のかくれみの」はやっぱり天狗に返すか押入れの行李のなかにでもしまいこんでおいたほうがいいのだと、密かに思ったのである。

                        2004.07.22    佐々木利夫


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天狗のかくれみの