は じ め に

1 忠臣蔵事件とは何か

 忠臣蔵と呼ばれる事件は、徳川五代将軍綱吉の時代の元禄14年3月14 日(西暦1701年、今から約 300年前)、赤穂藩の藩主浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介にいきなり切りつけたことを発端とし、それから約1年10ヵ月後に起きた大石内蔵助以下四十七人の吉良邸討ち入りという二つの事件を指すものである。

 この事件は、忠臣蔵と呼ばれるほかに、赤穂事件、赤穂浪士、赤穂義士、元禄事件、四十七士などなど、さまざまに呼ばれており、おそらく日本人でこの事件のことを知らない人はいないだろうと思われるほど著名な出来事になっている。
 このことは、例えば歌舞伎や浄瑠璃はもとより、講談、浪曲、落語、小説、映画、演劇など、あらゆる分野にこの題材が使われていることからも理解できるところである。

 したがって、この事件は、多くの人々がそれぞれ自分なりの忠臣蔵観というものを持っているのであるが、一方において年末に繰り返される映画やテレビなどでは、筋を知っているにもかかわらずついつい最後までそれなりに興味を持って見てしまうという、一種独特の麻薬みたいな効能も有している。

 この事件は、驚くほど不明な点が多いことから、嘘と本当がごっちゃになっている部分が多く、時に誤解も多いのであるが、嘘は嘘として楽しむと言う意味も含めて元禄時代に戻ってみるのも一興であろう。

2 元禄時代の背景

 ところで、元禄時代というのはどんな時代だったのであろうか。一般には、昭和元禄という言葉が使われていることからも分かるように、平和というか、平穏というか、軽薄というか、とにかく安定していて華やかな文化の爛熟期であったというイメージが強い。

確かに関ヶ原の戦い(1600年)、大阪夏の陣(1615年)が終わって 100年、途中に大きな戦いとして島原の乱(1637年)はあったが、これからも51年を経て世の中は戦乱から開放され文化の花開いたのも事実 である。
 もちろん、由比正雪の事件(1651年)などもあったが、これはいわゆる徳川初期における危険分子であった浪人の一掃に過ぎず、戦乱とはおよそ無縁な事件である。
 この時代に歌舞音曲が栄え、絵画、衣装などの華美な文化が堰を切ったように隆盛を極めだしたのは様々な資料が示しているところである。 作家海音寺潮五郎はこの元禄時代を「国初以来の平和な時代であり、真の意味の太平、恒久性ある太平の時代であった」と記している(赤穂義士)。

 しかし一方、経済的にはすざまじいインフレの時期であった。
 既に四代将軍家綱時代から綱吉に政権が移った時、幕府の手持ち資金は逼迫していたと言われており、加えて綱吉は無闇に神社や寺院を造営したり、ぜいたくな生活を続けため、幕府の財政は困難を極めていた。このため、幕府は勘定奉行(大蔵大臣)の荻原重秀の意見によって貨幣の品位を下げる改鋳(これまでの慶長小判の金含有率87%に混ぜ物を入れて含有率57%の元禄金とし貨幣の水増しをする)を行った。つまり、幕府の金蔵はこれにより、名目上30%も増え、みかけ上の経済活況とインフレを招くことになったのである。
 しかも、政治的には武力の必要性がなくなっていく中で、中央集権が定着してきており、諸大名の取り潰しが公然と行われていた時代でもあった。
 このため、巷には浪人があふれ、かてて加えて将軍綱吉が制定した悪名高い「生類憐令(ショゥルイアワレミノレイ)」(1685年施行、1709年廃止)が、庶民の生活の上に重く暗い影を落としていた。

 華やかな文化を享受していたのは、ほんの一握りの人物で、庶民の多くはすざましい物価高と極端なまでの殺生の禁止の中で、不満の多い鬱積した生活を送っていたのであり、その不満の対象は幕府であった。

 忠臣蔵はこうした時代を背景に、大石内蔵助対吉良上野介という個人のあだ討ちという構図を越えて、いわば社会的現象としての枠組みを持つようになったのである。

 つまり、忠臣蔵は浅野内匠頭の遺恨を原因とする内蔵助の上野介に対するあだ討ち事件ではなく、庶民の幕府に対する不満が浅野内匠頭への判官贔屓と、吉良を悪者とすることで大石のあだ討ちを期待する心情を生み、あだ討ちそのものが幕府の裁決に対する抗議としての意味を持つようになったのである。

 また、そうした庶民の不満を内蔵助が逆に利用して、間接的に幕府の裁決に対する抗議をしたのが忠臣蔵であるとも言えるのである。池宮彰一郎の「四十七人の刺客」はこうした視点から忠臣蔵を再構築したものとして評価されている。