刃傷の原因 その1 怨恨説

 問題となるのが、刃傷の原因である。
 浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたるか」と言って切りかかっているので、遺恨、つまり怨みによるものであろうということは想像されるのであるが、実はこの原因が忠臣蔵最大の謎であり、問題点なのである。なぜならこの点をはっきりさせないと、これに続く内匠頭の切腹や赤穂浪士の討ち入りなどの位置付けがきちんと説明できなくなってしまうからである。

 ところが、この原因については歴史家が色々研究しているにもかかわらず、いまだに定説がなく不明であるというのが真相である。
 遺恨というからには怨みであろうといったが、これと対立する考えの中に精神障害説がある。
 遺恨というのは、内匠頭の発言を根拠としているので、仮に内匠頭が精神に異常を来していたとすれば、その発言は意味をなさないという場合もありうることになるからである。

 原因については後の方でもう少し詳しく分析したいと思うが、一つの手がかりとして、内匠頭が遺したという遺書じみたものを検討してみたい。

 これは内匠頭の切腹の場所になった田村右京太夫の家に伝わる記録で、内匠頭の自筆ではなく田村家の用人の聞き取りという形なっているものであるが、その記録によると内匠頭は家臣に対して次のような伝言を残したとされている。
 「この件については、もう少し早く伝えようと思っていたがこうなってしまった。知らせていないので、さぞ不審に思うことであろう」。原文では「この段、兼ねて知らせ申すべく候ども、今日止むを得ざることに候故、知らせ申さず候。不審に存ずべく候。」である。 たったこれだけの内容である。内匠頭自身が、「理由の分からない者は不審に思うであろう」と言っているのだから、他の者がその理由に苦しむのは当然なことであろう。

 普通に考えて、これでは伝言としての意味をなさない。伝言を残すのであれば、もう少し具体的にこんなことが原因であり、「悔しい」とか「残念」とか「憎い」とか、または「諦めてくれ」とかの意思が表示されてしかるべきではないか、また、どうしてこのような事態になってしまったのかという原因についても触れるのが普通であろうと考えられるからである。
 したがってこの遺書じみた発言からは、刃傷の原因を特定することはできそうにない。

 もちろん、研究家の中には、「この遺言そのものは本当はもっと長かったのだが、田村家が幕府なり吉良家なり、またそれ以外の第三者への影響を恐れて肝心の部分を削除したのではないか」という説を唱える者もいるし、また逆に、「こんな訳の分からない遺言をするということ自体が、内匠頭の精神異常を証明するものだ」と言う人もいる。
 結局、田村家に残ったこの遺書じみた記録の中からは結論が出せそうにない。

 一般に知られているのは、吉良上野介が賄賂を要求し、これを内匠頭が断ったことで吉良から散々ないわゆるイジメを受け、これが原因で、イジメに耐えかねた内匠頭が刃傷に及んだのだという説である。
 この説も含めて、もう少し刃傷の原因を探ってみたいと思う。

・ 賄賂説
 一般に理解されているのが賄賂説であり、賄賂を持ってこなかった内匠頭に吉良上野介は接待作法の指導についてことごとくつらくあたったのが原因であるとするものである。
 ところが、これを証明する資料は見当たらない。「徳川実記」という本があり、これは徳川家が自らのために残した記録なのであるが、この中に「世に伝えるところでは・・・」という表現、つまり「世間の話によると・・」という形で賄賂説が語られている。

 その内容は、吉良上野介は長い間公式行事の指南役であり、接待役を命じられた大名たちは腰をかがめて教えを受けた。吉良は賄賂を貪り巨万の富を築いた。しかし内匠頭はこれをしなかった。吉良はこれを憎み接待に必要なことの連絡をしない。内匠頭は時刻を間違えたり、礼を失することも度々だった。そしてこれを恨み刃傷に及んだ、とするものである。

 しかし、徳川実記というのは、赤穂事件が起きてから 100年以上もたった 1,800年代の始めに、江戸幕府が家康以来の将軍の行動を中心に編纂したものであり、徳川家自身がこのようにあいまいな表現をしているということ自体、賄賂説の根拠としてはいささか心もとない限りである。
 もちろんこのほかにも江戸時代も含め多数の研究家が賄賂説を唱えていることは事実である。

 しかしながら、少なくとも吉良上野介自身が賄賂説を言うはずはないにしても、内匠頭の残した言葉の中にも、大石内蔵助の幕府に対する様々な陳情書にも、また、討ち入りの時に吉良邸の玄関に立てた口上書(討ち入りの理由書)の中にも、賄賂説を裏づける表現は出て来ていないことは注目すべきであろう。

 ただ、賄賂といっても、もう少し考えてみる必要があるかも知れない。吉良上野介は高家筆頭という役職で、いわゆる幕府の様々な儀式の取りまとめ役である。
この時代、つまり元禄14年という時代は、関ヶ原の合戦から約 100年を経過しており、武力の面では非常に安定している。
 したがって幕府がその権力なり権威を示すためには、いわゆる武力に代わるものとしての儀式(セレモニー)の存在が非常に重要な要素になってきた、つまり幕府は武力に代わって儀式を通じて諸大名を支配するようになってきたということである。

 そうした意味で、吉良上野介の幕府における位置付けというものも自ずから定まってくるわけであり、しかも、一方において大名というのは武士であって儀式に弱いということも言えるわけである。そうした時、教える側と教えられる側との関係と言うのは、例えば、学校の先生と生徒とはちょっと違ってくる。大人と大人の関係と言うか、きちんと教える、感謝して教えを受けるといった慣習ができ、いわゆる謝礼と言ったものの発生してくる余地がないではない。

 またかかった費用を見ると浅野家の支出は非常に少なかったという説もある。つまり、浅野はケチだったと言うことであるである。
 そうすると、謝礼以前の問題として勅使饗応の費用が少ないということ自体、接待に身が入っていないということに受け取られる可能性があるし、この点に吉良が苦情を言うということも考えられることである。

 しかも、吉良家は高家の筆頭であり、上野介自身将軍の年賀使として15回、幕府の使いとして9回、京にのぼつて参内しているくらい格式の高い家柄なのであるが、禄高は三千二百石と非常に低く、その後加増されているものの、むしろ謝礼で格式を保っていた面もあると言われている。
 そこでつい、内匠頭に辛く当たったということがないとはいえないかも知れない。
 そして接待の手続きを教えない、または偽りの内容を教えて内匠頭に恥をかかせようとしたということが巷で言われ、それはいかにもありそうなこととして理解できるというのが庶民の実感なのであろう。

 しかし、実は内匠頭は17歳の時、現在35才なので18年前になるが、一度この勅使饗応を経験しており今回が2回目である。しかも内匠頭2歳の時に祖父の長直もこの役目をやっている。
 もちろん17歳の時であるから、近習の言いなりに動いていただけだとは思うが、それでも一度経験をしているのである。
 しかも、これほどの大事な行事であり、かつ、初めての大役であったのであるから、浅野家としても当時の記録は必ず残している筈であり、加えて5年前に勅使饗応役を経験した妻・阿久里の実家である三次藩浅野家の記録をチェックしているし、前年に饗応役をつとめた新発田藩からも情報を入手しているくらいなので、上野介がイジワルをしたぐらいで困るような事態が発生するとは考えにくい。

 この辺は主観なのでなんとも言えないが、巷で言われている、次のような、「いかにも吉良が悪い」という庶民受けのするような事件はまず考えにくい。

・ 増上寺の畳表替え事件
 勅使を迎えるに当たり、寺の畳を表替えすべきかどうか聞いたのに対し上野介は不要と答えた。前日になって必要と分かり、一晩で 江戸中の畳職人を集めて300枚もの表替えをした。
※ 増上寺参詣の場合の休息所の畳替えはご馳走役の仕事ではない。また、この参詣は15日の予定になっており、12日の夜に慌てて徹夜で替える必要もない。

・ 精進料理事件
勅使に出す料理は精進料理であると指示されたが、それは偽りであった。家臣の知恵で普通の料理との両方を用意しておいたため恥を免れることができた。

・ 礼服取り違え事件
  刃傷のあった当日の服装について、内匠頭はその朝上野介に尋ね、長裃(カミシモ)で登城したところ、居並ぶ諸侯はすべて大紋烏帽子であった。幸い家来のうちに気の利いたのがいて、別に烏帽子の衣装も用意してあったためその場を繕うことができた。
※ 服装は毎年の例で決まっていたはずであり、当日になって尋ねること自体不自然である。

・ 玄関の衝立の絵事件
    玄関の衝立の虎の水墨画が縁起が悪いと批判される。

・ 怨恨説
 賄賂説も賄賂の少ないことが上野介を怒らせ、結果として内匠頭が上野介に怨みをもつようになったというのであるから怨恨説の一つと言える。
 ただ、賄賂は非常に大きな原因とされているので、通常独立させて取り上げられることが多い。

 賄賂以外に、そもそも上野介が内匠頭にイジワルすることになった原因は何なのかに関しては、次のような様々な説がある。
 上野介が内匠頭の正室阿久里に横恋慕し振られた怨みによるものであるとする説。
これは歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の設定であるが、そもそも上野介が内匠頭の正室に会うチャンスそのものがなく、作り話である。
 内匠頭は男色であり、その対象たる小姓を上野介が欲しがったにもかかわらずことわったその怨みであるとする説。
 著名な茶道具を吉良が欲しがっていたのにもかかわらず、老中に贈ってしまったのでそれを吉良が怨みに思ったとする説
 このほかにも、上野介が皇室を蔑ろにしたからであるとか、勅使出迎えの位置が式台の上か下かでもめたとかなども原因の一つとしてあげられている。

 しかし、これらはいずれも根拠となる記録がなく、素人考えでも誤りの発生する余地がほとんど考えられないことなどからして、怨恨説の根拠としては無理がある。
 しかも、仮にこれらのイジメが事実だとすると、そのイジメは勅使接待の当日に起きていることが多いなど、内匠頭が失敗すればその責めが浅野家に行くのは当然のことながら、それ以上に指導者としての上野介の落度になるはずであり、場合によっては将軍と朝廷を巻き込む政治的問題にまで発展する恐れさえ含んでいる。

 したがって、上野介としてはこのような自分にとっても危険な、儀式の失敗につながるようなイジメはしなかったであろうと考えるのが一般的であろう。