刃傷の原因 その2  塩田説・精神障害説

塩田説

 これは比較的新しい説で、怨恨説の一部をなすものではあるが、非常に説得力があるところから、独立して主張されている。
 赤穂藩は瀬戸内海に面した赤穂のほか加西、加東、佐用の四郡を領し、塩の生産が藩の財政を支えている。
 赤穂藩は表石高五万三千五百石という比較的小藩でありながら 300余人もの家臣を抱えているが、それを支えていたのは塩の販売であり、実質は七万石に近かったとも言われている。
 その塩は赤穂塩と呼ばれて販路は主に江戸、大阪であり、品質が良いところから評判が高い。

 一方、吉良の領地は三州三河(愛知県)であるが、ここでも製塩をしている。その塩は饗庭塩と呼ばれているが、製法に問題があり必ずしも評判がよくない。
 ここまでは事実のようであり、これに絡めて刃傷の原因として次のように言われている。
 塩の品質が違うため、吉良としては赤穂に製塩技法を教えてもらうべく使者を送るが、赤穂としては企業秘密であるとして教えてくれない。吉良は産業スパイを放って技術を盗もうとするが捕らわれて殺されるなど失敗に終わる。こうした確執が次第に赤穂と吉良の対立を生むようになってきたとする説である。

 これだけでも吉良と浅野の対立の原因として十分な説得力を持つのであるが、一説にはこれに次のような話を続けるものもある。

 何とか塩による収入を確保しようとする吉良は、老中柳沢吉保に働きかけて、あろうことか浅野の領地たる赤穂そのものを取り上げようと画策する。
 ここまでくれば、領地を賭けた闘いである。内匠頭が藩の命運のみならず、自分の命までも賭けて上野介に切りかかったのも、その場所なり方法の是非はともかく十分に頷けるところである。
 ところが、この説は非常に分かりやすいものの、一つとして証拠がない。
 確かに赤穂も吉良も塩の生産をしていたが、そもそも製塩は海水を天日で濃縮してその後に燃料で煮詰めるというものであるから、それほど難しい技術を要するものではなく、穏やかな天候と遠浅の海岸でオープンに製造しているのであるから企業秘密と言ったものとはあまり縁がないとするのが大方の意見である。

 しかも、赤穂の製塩技法は瀬戸内の潮の干満を利用した入浜式塩田法で、吉良の地方には馴染まないと言われており、赤穂と吉良との間で塩の製造、販売を巡って確執があったとする説は、塩業史の研究者によっても根拠がないとされている。
 僅かに昭和43年に赤穂市役所が発行した「赤穂塩業史」の中に『赤穂塩の商品的発展はめざましく技術的にも経営的にも全国の魁をなしていた・・が、この先進性探求のため、吉良家では赤穂塩田に間諜を放っており、当時彼らが捕らえられ獄中に繋がれていたと伝える。・・・ここに吉良と浅野の、陣営における葛藤が始まったといわれる』との記述がある。

 しかし、古文書も含めてこれを裏づける資料はない。塩を巡る葛藤の話が初めて出たのは、「赤穂義士事典」によると、昭和29年に吉良出身の作家尾崎士郎が「きらのしお」と題して発表した創作が最初であるとのことである。
 もつとも、幕府自体が塩の権利を欲しがっており、吉良をそそのかして赤穂を追い詰めたとする説や吉良の産業スパイが成功し、江戸での吉良の塩の評判が高くなってきたので浅野が怒ったとする説など、塩田説には事実かどうかは別に、現代の我々にもストーリーとして分かりやすいという側面もあって、塩を巡る怨恨説はまだ完全に否定された訳ではない。

精神障害説

 浅野内匠頭の精神障害が刃傷の原因であるとする説はそれほど珍しいものではない。現に刃傷の直後に上野介自身が「内匠頭は乱心した」と主張しており、逆に内匠頭は乱心ではなく遺恨であると主張していることからも、当初からその対立があったと言える。
 乱心の根拠は単に吉良上野介がそのように主張したことのみにあるのではない。内匠頭がこの時期に「痞」(ツカエ) という病気にかかっていて薬を飲んでいたことは記録に残っている。

 ところでこの「つかえ」という病気は、国語辞典によれば、「胸がふさがって苦しいこと」とされているが、「気が塞ぐ」といういわゆる鬱状態をさすものであることは、現在定説となつている。
 つまり、内匠頭は当時鬱状態で治療を受けていたということである。加えて、内匠頭の母方の叔父にあたる和泉守忠勝が、忠臣蔵事件の21年前、内匠頭14才の時の1680年6月、三代将軍家光の法要が行われたときに乱心して永井信濃守を殺害し、翌日切腹を命じられている事実があったことから、家系的にも内匠頭に精神障害の要素があったとする説もある。

 また、内匠頭は短気で気まぐれであったとする記録もあり、精神障害説を補強している。
 精神障害説については、必ずしも支持者が多いとは言えないのであるが根強い支持があり、最近でも次のような著作が見られる。
*忠臣蔵元禄十五年の反逆(井沢元彦、新潮社) 

 ところで大石の討ち入りを正当化する理論に「喧嘩両成敗」がある。ある、というよりは喧嘩両成敗以外に正当化する理論がないといってもいいであろう。
 上野介と内匠頭の争いが喧嘩かどうかについては、はじめから意見の分かれるところである。
 喧嘩であることが事実であれば、仮にその喧嘩の原因が不明であるとしても両成敗の理論が働くから、これに続く物語は正当なものとなる。

 ところが、切りかかった内匠頭に対して上野介が何の手向かいもしなかったことは明白な事実であり、このことに対して幕府は当初上野介に「殊勝でありお構いなし」として称賛さえしているのである。そうすると、この事件はいわゆる「喧嘩」というものとはかなり異質なものであったということが言えるのである。

 喧嘩であれば、両成敗(ことの善悪にかかわらず、当事者の双方を罰すること)となることは当時の当然の慣習であったから、上野介にお構いなしとした幕府の処分は明らかに片手落ちになる。
 しかし、これが喧嘩でなければ両成敗の理論は成立しないことになるから、幕府への非難はもとより、大石ら47人の討ち入りもその名目というか大義名分というか、いわゆる正当性を失ってしまうのである。

 そこで大石内蔵助は執拗に上野介と内匠頭の確執を喧嘩と位置づけているのであり、それ以外に幕府の処分を片手落ちと責め、浅野家の再興を要求する手立てがなかったのである。
 したがって、精神錯乱説は少なくとも忠臣蔵というドラマの成立上あってはならないことだったと言えるであろう。

 ただ、ここまで考えて仮に喧嘩であることを認めたとしても、片手落ちな処分をしたのは幕府であるから、大石としては幕府に抗議すべきであって、吉良上野介の住居を夜陰に紛れて集団で襲うなどということは理屈が通らないとも考えられるのである。