討ち入り敵討ち論と内蔵助の選択
1 敵討ち論
 内蔵助らの吉良邸討ち入りを敵討ちと解釈する説があり、敵討ちであるがゆえにこの討ち入りを快挙と呼び、さらに討ち入った者たちを義士と呼ぶ根拠にもされているので、この面からの検討をしてみたいと思う。
 もちろん内匠頭の刃傷の原因がつかめないままであり、原因がはっきりしないと敵討ち説も迫力に乏しくなるのであるが、ここでは仮に内匠頭の悔しさ(つまり上野介への刃傷の背景)が万人の紅涙を誘うものであり、内蔵助ら臣下にも断腸の思いが伝わってくるということを当然の前提として話を進めていきたい。
 さて、敵討ちといってもそれほど深い知識があるわけではなく、昔見たり聞いたりした映画や講談などのうろ覚えの知識が前提になるのであるが、それによると敵討ちとは次のようなものである。
 前提として「AがBを殺す」があり、殺されたBの親族C(通常は夫を殺された妻、父を殺された子が多いが、まれに母の敵であったり兄弟の敵を討つ場合や、配偶者、子弟以外の者が討ち手になる場合もある)が、主君の許可を得て免状をもらい、幕府へ登録した上でその謄本を受け、多くの場合Aは他藩に逃亡しているので、数年掛りの艱難辛苦の末、Aを討ち果たすというものである。
 もっともこれらの許可がないと敵討ちができなかったかというとそうではなく、敵討ちに仮装した殺人は厳しく処断されたようであるが、真の敵討ちであれば結果オーライの面も多かったようである。
 ところでこの敵討ちのパターンを内蔵助らの吉良邸討ち入りにあてはめてみると、一見してすぐにあてはまらないということが分かってくる。
 吉良邸討ち入りの場合、Cを赤穂浪士とし、Aを吉良上野介、Bを浅野内匠頭とすることで話の筋が落ち着くかのように見えるのであるが、「AがBを殺した」のではないことに注意すべきである。
 Aは逆にBから殺されかけたのであり、Bを殺したのは幕府なのであってAはなんら関与していないのである。つまり「幕府がBを殺した」のである。
 そうすると内蔵助らの行動は、「内匠頭が上野介に切りかけたが未遂に終わってしまったので、部下が集団で既遂の状態にしてしまった」ということになるのであり、果たしてこれを敵討ちと呼べるのか言うとかなり疑問である。
2 内蔵助の討ち入り選択
 1のように考えてくると、「上野介を殺す」という大義名文はどうも出てこないようである。しかも刃傷の動機を止むに止まれぬものと仮定してもそうなのであり、現実に刃傷の理由すらも特定できないとなればなおさらのことである。
 内蔵助の狙いはむしろ「刀を抜いたのだから浅野家断絶はやむを得ないところであるが、抜いた内匠頭にもそれなりの理由があったし、突然の藩の消滅で家臣も動揺している。どうか浅野家の再興を認めてもらいたい」というところにあったと見るのが落ち着くのではないだろうか。
 内蔵助はこの要求を現実に各方面に対して行っているし、もしかすると、当時「生類憐の令」などで幕府に鬱積した思いを募らせていた庶民の不満をこの要求に重ねることにより、世論と言えば大げさになるが、世間の噂みたいなものを利用して実現しようとしたのではないのだろうか。
 幕府としてもこうした内蔵助の思いや世間の動向を十分承知の上で、浅野家再興以外の方策を虚々実々の駆け引きの中で探っていたのではないだろうか。
 例えば隠居させることで上野介を吉良家の代表から単なる一介の老人に格下げするとともに事件から約5ヵ月後の8月19日には吉良邸を府外の本所松坂町に移すよう屋敷替えを命じているのである。
 このことで幕府は浅野の浪人が吉良上野介を討つことを間接的に補助したと見られないこともないのである。すなわち隠居は吉良家対浅野という対立構造を解消し単なる個人の問題に帰してしまうから、幕府行事の指導役たる高家という立場から来る幕府の体面をはずすことができるのである。
 また、府外転居は幕府の警備管轄というか江戸城の敷地の外ということで、幕府に対する挑戦という側面をなくしたことになるのである。
 しかも内蔵助個人としての思惑は必ずしも明らかでないが、浅野浪人全体とし幕府に要求していることは浅野家再興で事足れりとするものではなく、幕府の処分が片手落ちであるから吉良上野介も処分して我らの面目を立ててほしいというものである。
 そうすると、幕府としては仮に浅野家再興を許可したとしても、この事件の最終的な解決にはならないということになる。
 そして仮に幕府が浅野家再興と吉良処分を実行したとすれば、その時点でこの問題は幕府自らが当初の判断の誤りを公的に認めたことになるのであり、しかも浪人が徒党を組んで幕府に対抗しその結果を容認したという事実をも認めることになるのである。
 それに反し、浅野の浪人に吉良上野介を討たせてしまえば、上記の吉良隠居、屋敷替えのところで述べた通り、この争いは浪人と吉良の私闘であり幕府は安全圏にいることができるのである。
 したがって幕府が、浅野大学の身柄を広島の浅野本家である浅野安芸守綱長に預けることで播州赤穂の浅野家の再興を認めず、断絶の処分をしたことは当然のことであったと思われるし、これ以外の選択肢はなかったとも考えられる。
 こうして大石内蔵助は、殿中刃傷がある以上内匠頭切腹命令に対して公式に幕府に抗議することもできないうえ、浅野家再興も叶わない状態に追い込まれ、しかも同志からは吉良討ち取りを迫られているなかで、幕府の誘導に乗る形で吉良邸討ち入りを選択せざるを得なくなったのだと言えよう。
 これで幕府としてもこの事件を幕府対浅野という形から単なる浅野の残党による私怨として道付けし、武士道の鏡などの若干の称賛の言葉を添えることでその矛先をかわしたのだと見ることができるのである。
 そうでなければ、大石ら50人もの集団が自由に江戸に出入りできたこと、夜間(しかも当日は内匠頭の月命日である)47人もの者が集結しているのを幕府が気づかなかったこと、などの説明がつきにくいのである。
 この物語には多様な解釈が可能であると思うが、結局は内蔵助のような知恵者にとってもこのように幕府の手のひらの上でしか動けなかったと解することも可能になってくるのである。それがたとえ気にくわない説であるとしても・・・・・。