南部坂雪の別れ

 大石内蔵助にまつわる逸話の中でも特に有名な場面である。内蔵助は討ち入りの直前、江戸南部坂(現在の港区)に住む浅野内匠頭の未亡人に会いに行く。明日未明の討ち入り決行を伝え、同士の連判状を渡すとともに内匠頭の霊前にもそのことを報告したいのに、吉良の密偵の影にそれもならず、「ある西国の大名に召抱えられることになった。再びお目にかかることもない。東下りの旅日記を持参した。」と断腸の思いで偽りを伝える大石。怒りに席を立つ未亡人、降りしきる雪の中に今生の思いを背中で伝える大石、夜中に内蔵助からの旅日記を盗もうとする女間者、ほどけた旅日記がそのまま連判状、やがて入る討ち入りの知らせ、大石の別れの意味を悟り短慮を悔いる未亡人。
 これほどの場面設定はないくらいに見事なドラマである。恐らくここを飛ばして忠臣蔵という物語は成り立たないだろうと思えるほどの完成された情景である。

 しかし大石がこの日南部坂の屋敷を訪ねた事実はなく、この話はまったくの創作である。未亡人が南部坂にある浅野家下屋敷に住んでいたのは事実だが、それは刃傷事件までであり、内匠頭が即日切腹させられた三月十四日の翌日にはこの屋敷を出て、実家である今井町の三次浅野家の下屋敷に転居している。そして三月十八日には早くもこの屋敷は幕府に接収されてしまっているのである。

 しかも討ち入り決行の前日という極めて危険な日時(討ち入りは翌未明だから実質的には当日と言ってよい)に内匠頭の未亡人宅を尋ねるなどもってのほかであろうし、討ち入りに伴う迷惑を未亡人へかけないようにするのが思慮深い内蔵助としての当然の措置であろうから、この点からも南部坂のみならず未亡人宅訪問そのものが誤りであると言えよう。

 この話は浪曲師の梅中軒雲右衛門が脚色し、それから急に有名になったものだとする説もある(飯尾精、大石神社宮司)。確かに現実感のある話であり、事実、討ち入りの半月ほど前に内蔵助は未亡人付きの家老の落合与左衛門に会って、未亡人から預かった金銭の決算報告をしていること、また、討ち入りの一年少し前、京都から江戸へ出てきた折に泉岳寺へ赴いて亡君の墓参をし、その足で今井町の未亡人宅に挨拶に寄っていることなどがあり、これらがこのような創作の背景につながっているのであろう。

 ともあれ、史実とドラマは別である。恐らくこの挿話がなければ忠臣蔵の映画などはサビ抜きの刺身や寿司になってしまうだろうし、こうしたいわゆる「嘘の話」が忠臣蔵という物語を育ててくれた大きな要因になっていることも否定できない事実である。史実と違うことを十分理解しながらも、そして結末を十分理解しながらも、降りつむ雪を傘に抱く内蔵助の姿は、男のロマンを十二分に伝えてくれるのである。

 ただ、虚と実がないまぜになっている忠臣蔵、ともすれば浄瑠璃や歌舞伎の仮名手本忠臣蔵にやや圧倒されている忠臣蔵に、ドラマ以外の光を当ててみるのも、忠臣蔵を楽しむ方法の一つであろう。