「美味いもの」っていうのは確かにある。けれども私は基本的に自分を味覚音痴だと思っているから、それほど味に自信があるわけではない。それが証拠に、どんなものを食べたって、「これはすげえ!」なんて味はこれまで一度も味わったことがないからである。
 味の分かる人から言わせれば、これはとても不幸なことかも知れない。人生の喜びのうちの大切な部分の一つを理解しないまま、人生の最終コーナーを回ろうとしていることを示していることになるからである。

 料理をテーマにしたテレビなどの番組は多い。色々なスターが入れ代わり立ち代り出てきて、その料理を口に入れるか入れないうちに、顔中クシャクシャにしてその美味さを表現する。声も出ないほどの感激の表情が画面いっぱいに広がる。
 私はいつだって味覚音痴だから、口に入れた瞬間に顔中が天使になるような、そんな料理を味わったことがない。「美味い」、「まずい」はそれなり分かるつもりなのだが、その味わいはそんなに劇的なものではない。

 わたしの感じる味はむしろ、何気ない料理の中にある。そしてそれは、食べるか食べないうちに現れてくるものではなく、もっと低レベルなものであって、口に入れ、噛み、飲み込む、そうした一連の行為の中での喉越しを含めた味である。
 もしかするとそれは、舌で味わうというよりはむしろ喉で感じる味なのではないかとさえ思っている。

 食べるという行為は「飢え」のなくなった現代では日常茶飯事であり、加えて男も女も友人などと一緒に様々な会食に出席する機会も多いだろう。そうしたとき、美味いものを食いたいと思うのは無意識の必然であり、そうした食べるという場面を他人に見せる、他人に見られるという機会もまた、日常茶飯事である。
 そうしたとき、「美味いものにめぐり合うなんてのは一生に1−2回程度のもんだ」とか、「庶民の口に庶民価格では美味いものは絶対に入らない」、「美味いものに巡り会うチャンスというのは非常に稀である」、などという前提をおくならば格別、美味いものに出会ったとき、その場に他人の存在があることはそんなに珍しいことではなかろう。
 ならば、その場に居合わせた人たちの前で、料理を食べた人が美味さの余り顔中クシャクシャにして、いかにも今が至福の時であるというような表情をしたり、美味さの余り声も出ないというような場面にぶつかってもよさそうである。

 しかし、私だけがそうした機会に恵まれなかったのかも知れないけれど、残念ながらそんな記憶がない。もちろん、だれもが苦虫を噛み潰したような顔で食べるのか問われれば、そんなことも絶対にない。ごく普通に談笑しながら、時に「けっこう美味いね」などとちょっと顔見合わせながら食うのである。

 そうした私の(味覚音痴としての)経験から言うと、「美味い」というのは、味そのものに対する絶対評価なのではなく、作ってくれた人への感謝であるとか思いやり、更にはかつてその味に出会った時の懐かしい思い出、その食べ物にまつわる歴史や生活そのもの、もしくは素材そのものの奥に潜むさりげない静かな味、そうした状況の総合した感覚を指すのではないかと思い始めてきている。
 だから、ほかの人にとっては普通の味でも、その人にとっての「美味さ」というのがあるのであり、なんでもない味でも、ほんの少し気持ちを移してみることで気づく味もあるのである。「美味い」というのは本来そういうものなのではないのだろうか。

 例えば私には「丸ごと一個のゆで卵」がある。このぜいたく品には、運動会などでかろうじて一人で一個を食べることができた時代の、切ないくらい懐かしい思い出がこもっている。つるりと殻がきれいに剥け、ほのかな温泉の香りがして、それを二口三口で頬張る感触は、今でも続くなにものにも代えがたい私だけの美味さである。いや、美味さを超えた価値感でさえある。

 ところで、仮に美味いことが独立して純粋に分かるとしたら、その人はきっと「まずい味」にも同じように感性が発達していることだろう。そうだとすると、微妙な美味さと同様、微妙なまずさも分かるということであり、もしかするとそんな人は、私のような「劇的に美味い」という味覚がないかわりにどんなものでも「そこそこ美味い」と感じる味覚音痴よりも不幸なのではないだろうか。そんな人は、普通の食事をどんな気持ちで食べているのだろうか。ことごとく味にピリピリ感じているとしたら、その人生は味そのものに脅迫されているように感じないのだろうか。もしかしたら、そういう人たちは味わうことを遮断するというような器用なことができるのだろうか。それとも「もっと美味いもの、もっと美味いもの・・・」とひたすら味を追いかけていくのだろうか。

 こういうふうに手前勝手に味覚名人の舌をけなしておいて、自分の味覚音痴を棚に上げる。その背景は、ほとんど毎週のように仲間と事務所で開いている「居酒屋ささき」の様々な手料理の言い訳にあるのかも知れない。ビールは自分で冷蔵庫から出してこい、たこ焼きはレンジで3分チンしてくれ、使った皿は水に漬けておけなど、千円会費の割には注文の多い店主であるが、そこはそれ、ここはなんといっても大統領執務室なのである。
 「すきやき」、「しゃぶしゃぶ」、「ちげ鍋」、「おでん」、「湯豆腐」、「とりのたたき」、「たらちり」、「風呂吹き大根」など鍋料理が多いけれど、時には揚げながらの天ぷら、焼き牡蠣、ホッキ貝の刺身やバター焼きなどなど、ここ数年、レパートリーもけっこう増えてきた。最近はカレースープ鍋の人気が高い。男の料理と言ってしまえばそれまでだが、二時間ほどで材料が空っぽになってしまうそのことが、仕事仲間喰い仲間からのなによりの賞賛である。明日の朝の後始末が楽な分だけ、引き続くスナックでのカラオケにも熱が入ろうというものである。

 おっと大変大変、大切なことを抜かしました。これを言いたくて書き始めたのに忘れてるところでした。料理を美味いと感ずることの一番の秘訣は「空腹」と「ゆっくり食うこと」です。これに勝るスパイスはないし、だれにでもできるたやすい準備です。
飽食のあなたにもですよ・・・・・・。

                       2004.02.19    佐々木利夫


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