月にウサギが住んでいるというお話は日本だけではないようだ。これからする話はインドから伝わった童話だが、知らない人もいるかと思うので、あらましを紹介しておこう。

 ある寒い夜、やせ細って死にそうになった旅人が山の中をさまよっていた。その旅人を見つけたリスとタヌキとウサギが、なんとか助けようと頑張る。タヌキは薪を集めて火をおこし、リスは木の実を集めてきた。しかし、ウサギには何もすることがなかった。
 ウサギは突然、「私の肉を食べて元気になってください。私にはこれしかできないのです」と叫んで火の中に飛び込む。
 その健気な心意気に打たれた旅人は、「私は月の神だ。お前の親切を世界中の人に知らせよう」、そう言ってウサギの姿を月に描く。めでたし、めでたし。

 でもちょっと待って欲しい。この話は、どうして月にウサギが居るのかという疑問の説明にはなっているけれども、どこか変である。この旅人は、ウサギの姿を月に描けるほどの神通力を有している神様である。
 神様がどこまで万能なのかは知らないけれど、この話はウサギの死をテーマにしているのである。それなら「ひもじさくらい我慢しろよ」と私は思うのである。「腹が減ったことくらい自分でなんとかしろよ」とも思うのである。

 神様なんだから自分でなんとかできたはずである。それにもかかわらずなんにもしなかったと言うことは、この神様は明らかに誰かを試しているか、もしくは誰かを相手にゲームを楽しんでいるに違いない。その相手がリスなのか、タヌキなのか、ウサギなのかは分からない。でもその旅人が「やせ細って死にそうになっている」と言うのは、間違いなく演技である。死にそうなふりをしていただけである。
 神様がそのウサギの肉を食べたのかどうかは、書いてないから分からない。物語の状況から見て、恐らく食べなかったのだろうと思う。食べなくてもその神様は死ななかったのだろう。
 一体全体神様が飢え死にするってことが、そもそもあり得るのだろうか。

 少なくとも神様である。ウサギが死んでしまった後に、慈悲心を出して月にその姿を描く前に、他にすることがあったろうと私は思うのである。神様なら「ウサギが火に飛び込む前に予知しろよ」と真剣に思うのである。これしきのウサギの気持ちや行動を予知できないのなら、神様を名乗ることなんか許されないのではないかとさえ思っているのである。

 ウサギの行為を神様は、「お前の親切」だと評価した。でもウサギの選んだ自らの死を、飢えた旅人に対する親切という概念と結びつけてしまうのは間違いだと私は思う。神様だったら、「お前の選択は間違っている」ときちんと諭さなければならないのではないかと思うのである。
 死んでしまってから、大きくて金ぴかで世界中に見える立派な額縁かも知れないけれど、そんなもので表彰状や感謝状を渡すような、そんな神様のやり方は、絶対に理不尽だと思っているのである。

 神様は自分より弱いものを試してはいけないのだと思っている。試さなければ相手の真意が分からないような神様なんてどうしたって変である。だから私は、この神様に怒りさえ感じているのである。

 ・・・・・それとも、それとも、神様はこのウサギを食べてしまったのかも知れない。食べなければ神様は死んでしまったのかも知れない。飢えは人も神様も同じなのかも知れない。満腹になって、幸せの腹をさすりながら、神様は自分の腹に入ったウサギに本当に感謝したのかも知れない。神様だって自分の命のほうがウサギより大切だと思ったことだろう。勝者は敗者に感謝状を贈ることで、自分の罪の思いを忘れることにしたのである。なにしろ、私は神様なのだから・・・・・。

 ・・・・・そしてもう一つ。神様はこのウサギの行動を事前に知っていたのかも知れない。神様なんだからちゃんと知っていたけれど、感謝状一枚でウサギの肉が食えるのである。空腹の身にそんなチャンスを逃す手はない。しかもウサギは真剣に、善意で我が身を提供しようとしているのである。・・・・・・おやおや、これではまるで悪魔の所業だよね。ちょっと考え過ぎでした。

                            2004.07.23    佐々木利夫


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月とウサギ