年を重ねていくということは、人生の色んなことにぶつかって丸くなっていくことであり、いわゆる酸いも甘いも噛み分ける完成した人格に近づいていくことを意味すると言うのが一般的なのかも知れない。
 しかし、それを一たびわが身に置き換えてみると、なかなかそうはいかない現実を思い知らされるし、白髪も叡智とは無縁だと実感する毎日である。
 だからその現実を「老いにはまだ遠いからなのだ」と自分勝手に解釈することも可能なのだが、逆に昔から「老いの一徹」などと言って、融通が利かず、頑固になっていくという表現もあることだし、まあ凡人というのは未完のままに年をとっていくものであり、成長とは無縁の場所にうずくまっているというのが真実なのかも知れない。

 毎日毎日、約40〜50分かけて自宅から事務所まで徒歩通勤しているが、その途中は普通、ポケットラジオに付き合ってもらうことが多い。今日のことである。その放送の中で、立て続けに3つも、分かるようで分からない話にぶつかってしまい、そんなことにこだわってしまう自分に逆に驚いてしまった。

 その一 自然を大切に

 旭川郊外に放牧場があり、そこでは観光客を馬に乗せて自然を楽しませているという。そして経営者の談である。「馬に乗って、森や木や小さな植物や動物に接してもらいたい。そして自然に親しみ、自然がいかに大切かを理解して欲しい」
 でも私は思うのである。言ってることは分かる。でもその森や林にもともと馬はいなかったんじゃないか。観光のために道路をつけ車を通し、駐車場を設け、そして馬を連れてきて人を乗せて草木を踏みにじっておいて、なにが自然を大切にだ。そんな場所で飲食店をやったりコンビニを作ったりしたのでは採算が合わないから、自然にかこつけて馬に乗せるという事業をしているだけではないのか。商業行為と自然を守ると言うことは、決して両立しないのではないか。両立させると考えるのは、事業のために自然を利用するというだけのことなのではないか。
 仮にその場所の人気がどんどん高まって、押し寄せる人で溢れてきたら、彼はきっと「大切な自然」を更に切り開いて駐車場を増やし、食堂を広げ、馬を増やしていくことだろう・・・・・・・と。

 その二 フリーマーケット

 「着なくなった自分や子どもの衣類が溜まってきた。ゴミとして捨てるよりも、必要と思える人に使って欲しい。それでフリーマーケットに参加することを思いついた。でも、どんなふうに並べたらいいのか、どうなふうにお客さんに声をかけたらいいのか、それよりも一番困ったのは値段の決め方が難しい、経験者の方のアドバイスがほしい」という主婦の声である。
 すんなりとこの主婦の悩みが分かるし、そのまま聞き流していた。ところが、値段のところでつまづいてしまった。この主婦の発想の基本は、「ゴミとして捨てるよりも、必要な人に使ってもらいたい」のはずである。そうであるなら、値段はどうでもいいのではないか。フリーマーケットに参加するために費用がかかるかも知れない。参加するための準備も入れて数日の自分の時間を割かなくてはならないだろう。

 しかし、値段決めが難しいという発想は、すでに最初の主婦の動機がどこかへすっ飛んでしまっていることをあらわしているのではないか。主婦のこころはすでに「売れるという条件のもとで最大の価格表示をしたい」というように、最初の動機から離れた経済効果のほうに移ってしまっているのではないか。
 無料で提供してもいいはずである。10円という価格で販売してもいいはずである。それで十分にその衣類は欲しいと思う人のところへ届くはずである。
 でも、もし、売上金で家族とファミレスで食事、などと思っているのだとしたら、すでに動機は不純になものに変わっているのではないだろうか・・・・・・。

 その三 森を大切に

 ある都市の森で開かれた、1万円会費の焼肉食べ放題の慈善イベントでの主催者の言葉である。
 「人間は、食べ物が無くても数週間は生きていかれます。水が無くなったとしても数日間は生きられます。でも、酸素がなければ数分間で死んでしまいます。こんなにも酸素は大切なのです。酸素を供給するのは森林です。森を大切にしましょう。」

 そのとおりである。空気がなければ人は数分で脳死状態になり、やがて死亡する。しかし、命の大切さを計測する基準に死にいたるまでの時間を持ってくるというこの発想には、どこかついていけないものがある。
 確かに飢え死によりも窒息死のほうが死に至るまでの時間が短いのは事実である。しかし、問題なのは、「死ぬ」いうことなのであって、どんな原因やどれほどの時間で死ぬのかということとは違うのではないのか。
 「いつ死ぬか」という問題は確かに重大である。でも、ここで問題にしているのは、天寿を全うして老衰で死ぬということと、理不尽な理由で幼くして死ぬことの比較なのではない。

 例えば仮に、そんなことはあり得ないかもしれないけれど、私に食べ物と水と空気のいずれの遮断による死を選ぶかと問われれば、自殺ででもない限り、最も長く生きられる「食べ物」を選ぶだろう。それは生物としての当然の本能であり、同時に理論的にも、死に至るまでの時間の間に何かの偶発的なできごとで食べ物が手に入る可能性だってないわけではないからである。
 それは生き残れる可能性の問題だからである。死に至るまでの時間を延ばすということは、さらに長く生き延びる可能性をその時間の中に内包しているからである。

 しかし、この森のイベントの主催者の発想はそうした生き残る可能性とは無関係なレベルで論じている。どのみち死ぬのである。絶対的な死がそこにあり、そこにいたる時間だけが僅かに差があるのである。その僅かの差を理由として、主催者は「森を大切に」と叫ぶのである。

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 たかだか30分くらいの間に少し変だなと思える話題が立て続けに耳に入ってきたものだから、逆にそう感じる自分のほうが少し変なのかなとも思った今朝の出勤だった。

 いずれの話題も、理解できないというのではない。むしろ日常的に繰り返されているであろう話題であり、特に関心をひくこともなく聞き流してしまうことの多い話題の一つなのではないだろうかということは、それなり了解している。そして、老人が偏屈になっていくというのは、こうした日常的に当たり前みたいなことに、いちいち目くじらをたてることにあるのかななどとも感じている。

 山道を歩いて、時に草花を無意識に踏み潰すことがあったとしても、自然を感じる心に恥じることはないだろうし、フリーマーケットの話にしたところで、ゴミが資源に変わるのなら、それが経済的な効果を生み出すことにまでボランティア精神を持ち出すこともないだろう。酸素の供給源は森林なのだから、食べ物も水も空気もどれも同じように大切なものだと言っても、その中の一つを特に大切にしようと思う人がいたところで非難すべきことではない。ましてや「食い物や水や空気よりももっと大切なものがある」などとしたり顔の理屈をこねることなど論外である。

 ただそうは思いながらも、いかにも純粋そうにみえる言動の中に、どこか嘘があるのではないか、純粋ではあっても、そこに思い込みと言うか、偏りというか、驕りのようなものが隠されているのではないかと、路地裏の偏屈な老税理士は暇に任せて余計なことを考えたがるのである。

 三月決算法人の申告書も出来上がった。これからは少し(といっても、いつもとそんなに違いはないのだけれど)仕事を離れた自分だけの時間も増えてくるようになるだろう。
 小人閑居して不善をなす(つまらん人間は暇になるとろくなことをしない)のは歴史の証明するところかも知れないし、不善の中にはきっと老いの繰言も入っているだろうから、気ままにこんな雑文を発表していくのもいいかも知れない。
 季節は夏の入り口である。山の緑もすっかり濃くなって、夏草のいきれが匂ってくるようである。

                           2004.05.26    佐々木利夫


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