優しさは無責任

 困った時に優しくしてもらえるのはとっても嬉しいことだけれど、もっと困ったときに優しくされることは、実は困難に立ち向かう勇気をも疎外されてしまうことになるのではないかと感じることがある。

 優しさっていうのは、どちらかというと勝者の驕りみたいなものや、自分を無関係な立場(傍観者)に置きたい場合などを背景に持っていることが多々あるから、場合によってはとても無責任なものになってしまうことがある。

 人生というのは結局自分の責任で立ち向かっていくしかないものなのに、そうした真剣な勇気がもし優しい言葉で腰砕けになってしまうことがあるとするなら、優しい言葉は無責任どころか有害ですらあるのではないかと、このごろ考えるようになってきた。

 先生と生徒、親と子、先輩と後輩、上司と部下、更には大人と子供といった、本来であれば特別権力関係と言ってしまえばそれまでだが、一種の指示と従属といった関係がだんだんと壊れて行って、命令や強制は悪であり、互いに友達みたいな関係が望ましいというような風潮に変化してきている。

 しかし、先生は自分の行動を自分で律することのできる責任ある人格なのである。親は子供の正しい方向を自分の知恵と経験で舵取りする大人なのである。先輩は後輩がこれからたどるであろう道筋を、自分の失敗をもとにきちんと矯正できる能力を持っているのである。上司は優しい仲間ではなく、目標をしっかりと定めた船長としての責任と自覚を負っているのである。大人は自分の成功や失敗の中から学ぶべき知恵を蓄積した先達なのである。

 自由に危険を伴うことは当然のことだけれど、大人はその責任を受け止めることができるから大人なのである。大人は、先輩は、先生は、上司はそして親は、子供が、後輩が、生徒が、部下がそして我が子がしていけないことでも、自分の責任で出来るのである。それが大人なのである。「子供が真似するから大人がしない」というのは誤りである。もちろん大人そのものが、「してはいけないことだからしない」と考えるのは正しい。しかし、他人が真似るからある行為をしないというのは、大人としての自信と責任を忘れた無責任である。

そうした自分に対する自信を、現代は喪失してしまったのだろうか。自分だけしか見えない時代になってしまったのだろうか。

 優しさというのは、相手を是認することだけに終始するものではないはずである。なんでもかんでも無批判に承認したり、無関心を装うことではないはずである。

 ただ、だからと言って打ちひしがれている人間にこれでもか、これでもかと「叱咤激励」するというのも、やはりどこかしんどいものがある。一生懸命頑張っている人間に、もっと頑張れと責めているようなものであり、やっぱり黙って見守るしかない場合もけっこうあるのかななどと考えてしまう。

 人は優しさを欲しがり、時に優しさを拒否したいと考える。いつまでたっても人は身勝手な生き物なのかも知れない。