最近の読売新聞の朝刊地方版に、「妻の時計が故障し、店に持っていったら『買った方が安いですよ』とあっさり言われ、返す言葉もなかった。・・・『買わせる、捨てさせる、無駄使いさせる』という戦略によって『消費者』が作られてきた」と憤慨している記事が載っていた。『消費すること』の愚かしさを嘆いているのである。

 だが、論者の視点が今ひとつ分からなかった。今の時代、「直せば使えるのにそれを捨てて新しいものを買わせる」という考えが、我々が常々感じている「勿体ない」という思いに逆行しているという気持ちは理解できなくもない。

 でも筆者は具体的に何を言いたいのだろうか。筆者は「・・・しかし、消費が限界に達した今こそ、心と価値の時代、”消費者”から”生活者”へ変わるべき時である」と力説する。

 だがそれは、@修理代金という人件費の高いことを嘆いているのか、それともAたとえ買うより高くなったとしても、物を大切にすべきだという心がけ、もしくはその時計に込められた思い出などの無形の価値観を大切にすべきだという視点から、修理してでも使うべきだということを強調したいのか、更にはB@の裏返しかも知れないけれど、同じ用途のものが修理代金よりも安く製造できるような発展した技術力、生産力の高さを生んだ時代そのものを嘆いているのか、これ以外にも選択肢はあるかも知れないが、筆者は何を訴えようとしているのかが、この記事からは今ひとつ伝わってこない。

 それにも増してこの記事は、筆者がその時計をどうしたのか、つまり修理したのか、それとも新しい時計を買ったのか、もし買ったとしたら、古い時計はどうしたのか、そんな一番基本となるべき、彼自身の選択結果がなんにも示されていないのである。これは「一貫した文章」という視点から見るなら、明らかに不備な文章である。画龍点睛を欠いた文章である。
 壊れた時計をどうしたのかを書いた上で、筆者の言う「心と価値」とその選択結果とを対比して論ずべきではなかったのだろうかと思うのである。

 さてさて、それでは「あなたならどうする?」と問われるならば、答えは簡単である。
 その時計の修理代金が新しい時計を買うよりも安いというのであるから、その時計に修理代金を投下するに足る価値(例えば思い出、または貴重品としての価値など)があると認められるなら、修理した上で使用するであろうし、そうでなければ修理しないで単に思い出または骨董品として保存するか捨てるかを決めるだろう。

 理屈の上ではこのほかにも選択肢はあるかも知れない。壊れたままアクセサリー代わりに腕にはめているという方法もあるし、右手に壊れた時計、左手に新しい時計ということだって可能である。でも普通は決してそんなことをしないだろう。

 そうした選択をするというのはそれが合理的だからである。物の価値は理屈で決まるのではない。住んでいる社会で決まるのである。例えばコップ一杯の水で顔を洗い歯をみがき、更に庭の畑に使う生活をしている民族がある。いや、もっとギリギリまで使い込む民族だってあるという話を聞いたことがある。それは、水に「心」を見出しているからではない。必要な水が貴重品だからなのである。

 恐らくこの筆者だって、ゆったりと風呂につかり、その湯を捨て、水洗トイレでロール式のトイレットペーパーを思うままに使いながら快適な生活をしていることだろう。
 新聞紙はゴミに出すか、せいぜい町内会の資源回収に回すのが関の山だろう。

 人は、「そんなこと言ったって、新聞紙をトイレットペーパーの代用にはできないし、コップやバケツの水で洗顔したり入浴するなんて無理だ」と言うだろう。それはその通りである。そんな原始社会みたいな生活は、テレビと携帯に囲まれた飽食の現代では、望むこと自体無理なことなのである。
 
 ただ、自分の都合のいいところだけは流されるふりをして快適さを味わい、自分に利害の少ない場面では「正義」だの、「人間」だの、「価値」だの「心」だのという、いかにももっともらしい言葉を使って、自分があたかも初めからそういう存在であって、自分の本質は善意で正義で慈愛に満ちているんだなどとその立場を正当化してしまうというのは、どこか卑怯で偽善なのではないかと思えて仕方ないのである。

 そしてそれが、なんのことはない、自分の姿そのままであり、自分もまた共犯者なのだと気づいてしまうと、ますます落ち込んでしまうのである。

                            2004.04.19    佐々木利夫


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