言葉が変化していくのはどんな時代でも「世の習い」だとは思う。しかし、変化ではなく、誤った解釈がそのまま定着してしまうよう現象は、変化とは呼ばない、もしくは呼んではいけないのではないかと思っている。

 政治討論なんぞというのは、どうして大の大人がそれこそ愚にもつかない意見を、どうしてああも気恥ずかしくなく話せるものだとつくづく感心してしまうのが関の山である。だからあんまり一生懸命に聞くことなどないのだけれど、繰り返し繰り返し同じ言葉を、しかも間違った使い方を聞かされてしまうと、逆にこっちの理解が変なのかと思って不安にすらなってくる。

 今日(10月17日、日曜日)のNHKの政治討論会である。野党から、「与党のやりかたは、よらしむべし、しらしむべからず」であり、それが「政治不信のもとになっている」という発言があって、「ああ、また出たか」と思ってしまった。

 野党の発言した「由らしむ可し、知らしむ可からず」は、孔子の論語の言葉である。野党の発言者はこの言葉を「為政者は国民に無批判に頼らせればいいのであって、本当のことは知らせてはいけない」というように解釈している。
 つまりは「強きには文句を言わず、黙って従え」という意味に理解しており、そうした与党の政治姿勢が国民の政治不信の原因を作っていると言いたいのであろう。

 こうした解釈は、上位下達がいかに人々を虐げるかという批判をあらわす言葉として、けっこうあちこちで使われている。

 専制暴君の言葉ならまだしも、孔子の言葉だと分かれば、少しは「ちょっと待てよ」とこの言葉の真意を考え直してみても良さそうなものだと思うけれど、思い込みがそうさせているのか、一人歩きを始めたこの語は本来の意味を無視して突っ走っていく。

 この語は確かに為政者が国(民)を治めるときの心構えについて語ったものではあるけれど、国民に目隠しして、「黙って俺について来い」と命令しているのではない。
 この語の意味は、「為政者は国民から信頼されて導いていかなければならない。しかし、国民に正しい教えを完全に理解させるのはとても難しい。」というところにあるのである。
 だからむしろ、「国民に頼られることは容易だけれど、理解してもらうことはとても難しい」という意味だと解釈すべきなのである。

 だからそれを、「文句を言わずに俺についてくればいいのだ」と言うような、専制君主の「問答無用」みたいな解釈を、この「よらしむべし、しらしむべからず」という言葉に託してもらっては、この言葉が困るのである。誤用なのである。

 もっとも最近は、「政府は信用できないから情報を公開せよ」というのが当たり前の状況になってしまっていて、孔子の時代に、為政者が国民に真実を知らせるにはどうしたいいのかと悩んだのとは対照的な時代になっている。

 いつから使われているのだろう。訳の分からない決着のことを、政治的決着とか政治的解決と言う風潮がある。それが大人の解決であり、見かけはどうあろうと、そしてそれがどんなに理不尽に見えようと正しい解決なのだということを、理屈抜きで信じよと言うものである。

 こうした使い方は、マスコミそのものが多用しているような気がする。マスコミが世論の代表であるかのように不遜な顔をしだしたのは、そんなに古いことではない。報道という言葉だって、かつてはマスコミ自らが「報導」(つまり、導く)などとしたり顔で使っていたのだから。
 事実を伝えることがマスコミの使命であり、それを分かりやすい言葉で伝えるのが役割だったのではないのか。そのマスコミが、あたかもそれが無批判に承認しなければならないような言葉として「政治決着」という語をいかにも安易に使う。しかも、そう書くことで、一切の疑問が払拭されてしまったかのように結論付けてしまう。

 でもこれは変だとは誰も思わないのだろうか。どうしてそうなったのかを、きちんと調べるのがマスコミの使命なのではないのか。読者や視聴者から対価を得ているものの義務なのではないのか。
 もちろん結論に至る経緯の分からない場合もあるだろう。調べても調べても、不明なことだって当然にあるだろう。そうした時は、「分からない」と書くべきなのである。「政治的決着」という、正体不明の怪物に、物事の判断を任せてはダメなのである。それがマスコミに席を置く者の、最低限の使命なのである。

 「よらしむべし、しらしむべからず」を、多くの人が誤用するのは、そうしたマスコミの安易な考え、そして無批判に権力は悪であり、権力に対抗することそのものが正義だと思い込んで報道する者の思い上がりが原因になっているのではないだろうか。

 だとしたら、そんなに誤用が多くなり、誤用のほうを真実だと思い込む人の数か多くなっている現実に、それならそれで構わないじゃないかなどと思ってはいけないのだと、私は逆に意地になっているのである。「日本語だって、解釈だって時代により変わっていく」などという無責任な囁きに惑わされてはいけないのだと、ひたすら思っているのである。

 それとも今の政治が誤用の方向に動いていて、多数という隠れ蓑の陰で、本当に国民から真実を隠そうとしているのだろうか。むしろ、誤用が正しいのだろうか・・・・・・。

                         2004.10.17   佐々木利夫

            トップページ   ひとり言目次   気まぐれ写真館   詩のページ


  よらしむべし、しらしむべからず