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 小沢征治の娘、征良の書いたエッセイ集「思い出の向こうへ」を読んだ。なんだか別世界の人だと感じた。
 トルストイのアンナカレーニナの冒頭、「幸福な家庭は全て互いに似ているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」は余りにも有名な言葉だけれど、このエッセイを読みながら、不幸のかけらも感じさせない彼女の人生は、幸福もまたそれぞれなのではないかと思わせるに十分な内容だった。こんなにも明るくて幸せな人生なのに、なぜか共感する場面がとても少ないのである。

 その中の話題の一つ、「いのち」というタイトルでは、「日本では毎年28万匹の犬がブランド犬でないという理由で殺されている」というホームページの記事を発端として、「ここ数年、ニューヨークでは、雑種を飼っているということが一種のステータスになっている。各界の有名人が雑種を飼い始めてから流行りだしたらしい。こういうふうに一人ひとりが、”お金じゃない価値”を見出せるような世の中になってゆけば本当にいいのに、と思う」と結んでいる。

 彼女はきちんと、「有名人が雑種を飼い始めてから流行りだした」ことを理解していながら、そのことと「お金じゃない価値を見出す」ことを結びつけようとしている。

 まあ、前提として、ブランド犬でないという、そのことだけで28万匹も殺してしまう日本という国の理解、犬の命に対する日本人の理解の仕方にも問題はあると思うけれど、幸せしか知らない彼女は、「ブランド犬に代えて雑種犬を飼う」というそのことだけで、雑種犬の命が大切に扱われていると理解してしまっていることになんだかとても違和感を感じてしまった。

 そもそも、「雑種犬を飼うことがステータスになっている」という前提そのものが、犬の命の理解とは無関係な次元に位置しているとは考えないのだろうか。

 もちろん、どんな動機にしろ「殺されたであろう犬の命が助かる」という意味では、これは「いのち」の問題である。どんなに惨めでもいい、ギリギリ生き残ることが「いのち」の最低限の出発点になると言うなら、誤解でも偽善でもとりあえず殺される機会の減ることが命の問題になるということに異論はない。
 どんな理由だって、死と生を分けるはざまでは、右へ落ちるか左へ流れるかの差は天と地にも及ぶのだから・・・・。

 しかし、彼女の考えは違うのである。彼女は雑種犬を飼う人は「お金じゃない価値」をそこに見出したのだと信じているのである。命の本質に対する理解に、その飼っている人々が気づき出したのだと信じているのである。
 どうして「ブランド犬を飼うこと」と「雑種犬を飼うこと」が同じレベル、つまり「雑種犬というブランド」のイメージでその雑種犬が捉えられているのだという現実を彼女は理解できないのだろうか。

 雑種犬を飼うということは、雑種犬の命の存在に気づいたからではないと、読者の私は感じてしまうのである。雑種犬を飼いはじめた人々は、ブランド犬を何頭でも飼うことができる各界の有名人(金持ち)である。
 彼らの近隣は恐らく誰もがお金持ちで、ブランド犬がそこいらじゅうに飼われており、その飼い犬がどんなに高級でも誰の目にも特別な犬として認識してもらえないという背景が日常的に存在しているのである。

 つまり、こうした有名人の世界では、並みのブランド犬ではもはやステータスにならないのである。そうしたとき、「いくらでも高級なブランド犬でも飼うことができる」という前提を多くの人が承認する状況のもとで、犬を飼うことによる特別な地位(ステータス)を得ようとするなら、たとえば世界に数匹しかいない特別ブランドの犬を飼うというように更に更に高級化に進んでいくか、思い切って逆の発想で、ほとんどの人が飼わないであろう雑種犬を選択するという「他の人が選択しない方向」に進むしかないのである。

 だから雑種犬の選択は命の問題なのではなく、単なる他人との差別化の問題でしかないのである。そしてそれが流行しだしたと言うことは、命の問題から外れて有名人の真似をする人が増えてきたことを示しているに過ぎないのである。そして、その流行がある程度の普及(雑種犬がステータスとしての意味を有しなくなる状況に近づくこと)に達したなら、有名人は雑種犬の飼育を止めるだろうし、それと同時に真似をする意味のなくなったその流行は終わってしまうのである。

 かくて、流行が終われば、「お金じゃない価値を持っているはずの雑種犬」は、もとの普通の雑種犬に戻るのである。

 確かに、流行している間に飼われた雑種犬は幸せだったのは事実だから、それだけでも「命の問題」として意味があったと言うなら、それはそれでいいだろう。でもそれは小沢征良の感じている「本当にいいのに、と思う」世界とはまるで違うのである。

 本人が素直に命の問題だと信じているのだから、屁理屈こねてそれを否定することはないとも言える。もしかすると、単純にまっすぐ、純粋に信じることのほうが、たとえそれが常識とは反する考えだとしても、よどんだ常識に逆に汚染されている今の世の中には必要とされているのかも知れない。
 それが、幸せしか知らない者の特権であり、役割なのかも知れない。だから、そんな純粋さにへそを曲げることで、老いた自称常識人は自分にはもうなくなってしまった純粋さをそこから少しずつ味わおうとしているのかも知れない。

                   2004.6.13   佐々木利夫

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