鬼灯・東京でのある日曜日
 秋・・・独りの日曜の目覚めは気だるい。外の青空の、その青さだけ部屋の寒々しさが一層もの哀しく、日差すらも何故か物憂い。
 ふらりと乗りこむ寮近くからのバス。スイッチ一つで幾編となく繰り返す終点を告げるテープの車掌。「中野哲学堂、下田橋」。
 グランドとテニスコートの間を抜けてこの公園には二つの門がある。妖怪門、常識門。つまるところ人は常識から離れることはできないのだろうか・・・。妖怪門は本名哲理門である。丸に「哲」の字の瓦を見上げ、失った若き時代の哲理へのそこはかとないあこがれの感傷にひたる余裕のある己に驚く。
 四聖堂、六賢台・・・神、仏、儒の混然とした世界がここにはある。しかし、カントは居ても、何故かキリストはここには居ない。
 唯心庭と唯物園、物質を精神からの派生となすも良し、物質が精神を創造したとするもまた良し。しかし、精神とは理性なのか、意志なのか、また神なのだろうか・・・。人間の意識の外に独立自存する物質とは果たして経験を通してしかその存在を許されないのだろうか・・・。
 ここでは奇妙な調和としてコンパクトにまとめられている。これもまた日本人の一種の処世なのかも知れない。
 鬼にも良心の灯が点る・・・・・・。朽ちた燭台を頭に乗せた鬼の石像に何故か心ひかれ、かたわらの碑には「鬼灯」。

幸せ感じ上手
 人が人を疎外していくのは、辺境を持てなくなった現代の必然かも知れないが、それでも、こんな言葉を見つけると、今の世にもパンドラの箱が生き残っていたのかと嬉しくなります。
 「わたし、幸せ感じ上手になります。看護婦が幸せでなければ、患者さんを幸せにはできませんものね」