ミゼレーレ

 ミゼレーレとは、旧約聖書に出てくる言葉で「救いたまえ」という意味だと聞いた。
 言葉には、意味というよりもイントネーションというか、固有のリズムがあり、なにかのきっかけでそれが耳に付くと、なかなかそこから離れられなくなることがある。
 この言葉が日常の生活や会話で使われる機会はまずないだろうから、私が耳にしたのは恐らくベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」(ミサソレムニス)のフレーズによるものだろう。

 キリスト教に限らず宗教そのものが私にとってどうにも理解しにくいものであるところからきているのかも知れないが、文学にしろ、音楽にしろ、映画や絵画やその他諸々の事象の中で、宗教が出てくると途端に理解に幕がかかったように感じることが多い。

 宗教というのは恐らく自覚するしないに関わらず、自身の中にあたかもDNAのように組み込まれているものなのかもしれないと、ふと思うことがある。だからそうした意味では私自身の中にも好むと好まざるとにかかわらず、宗教は他律的に存在しているものなのかも知れない。
 そしてそれは、生活の匂いというか風土というか、例えば日本人が日本語で物事を考えるのと同じくらい自然に体の中に染み込んでいるものであって、だからこそ宗教は他の宗教と決して共有または同化できないのだと、歴史や現在も続く多くの国際間や地域間での紛争がそのことを繰返し繰返し教えているのかも知れない。

 にもかかわらず、この「ミゼレーレ」という言葉の響きはなんと哀しいのだろう。
 荘厳ミサ曲でこの言葉は第2楽章「グローリア」と第6楽章「アニュス・ディ」に出てくるが、特に6楽章は「アニュス・ディ」(神の小羊よ)、「ミゼレーレ・ノビス」(我等を憐れみたまえ)、「ドナ・ノビス・パッツェム」(我等に平安を与えたまえ)という三つの非常にシンプルなフレーズを中心に構成されている。そこでのミゼレーレという言葉につけられた旋律のなんという哀しさだろう。
 「パッツェム、パッツェム……」と平安を望む大合唱は、時に感極まって音を外してしまうこともあるけれど、ミゼレーレの歌声はその興奮を静めるように、そしてあたかもそれが永遠に叶わぬ願いそのものであるかのように切なくも静かに訴えかけてくる。

 この曲を聞いていると、最大公約数というのではなく、もっと根源的な、もっと小さくて基本的というか、人間という存在の根っこの根っこにある信仰する心みたいなものに直接触れているようなそんな気持ちにさせられる。

 訪う人も、電話も、仕掛かりの仕事もない。とある一日のひとり事務所の午後は、ドリップコーヒーの仄かな香りとクレメンス・クラウス指揮のこの曲だけが客人である。