家より高いや

 三角山の登山口はいくつかあるが、山の手口は事務所から歩いて30分ほどの距離にあり一番近いものだから、もっぱらそこを利用することが多い。
 山といっても標高僅か311メートルだし、登山口から頂上までは登りで片道30分少々、だから登山というよりは散歩と言ったほうがいいかも知れない。

 それでも垂直300メートル余はけっこうなもので、コースによっては途中の楽をした分頂上直前の数百歩がそれなりの覚悟を決めなければならないようなルートもあれば、せっかく登ってきたのにダラダラと下りが続いてなんだかそれまでの努力が損したと思えるようなコースもあり、息切れも汗まみれもそれなりの満足を与えてくれる。
 天気の良い日、やや二日酔い気味の日、仕事の面倒くさい日など、なんだかんだと理屈をつけては雪解けから初雪のころまで週に1〜2回の運動靴を楽しんでいる。

 そんなある日、頂上で一息ついていたら、母親に連れられた幼稚園児らしい男の子が、息せき切って登ってきて、眼下に広がる札幌中央区のビル群を眺めていきなりこう叫んだものだ。

「わぁーすげえー、家より高いや……」

 藻岩山、手稲山、いやいやもっと高いところからだって、これまで何十年もの経験の中で、こうした景色は見慣れるほど見てきたし、それなり「素晴らしい」とか、「きれいだ」とか、「うーん、いいね」など、ほどほどの感動を味わってきた。
 でも、そうした抽象的な感覚の中で、こうしたダイレクトな表現が自身の語彙の中には無かったものだから、なぜかとてもショックだった。

 「家より高いや…」という、そうした具体的で素直な感動の気持ちを、私は大人になってどこかに置き忘れてきたのではないだろうか。
 母親はあわてて「高い、高い」と言いながら話題をそらそうとしている。山に登ってきて、そこが「家より高い」なんてのは当たり前の常識で、そうした表現がむしろ非常識に聞こえ、恥ずかしいと思ったのかも知れない。
 私は子供の言葉に「そうだ、そうだ、その通りだよね」と心の中で一人うなずき感動し、そんな風に高い所からの景色を感じたことなんて今まで一度も無かったと自分を覗く。

 以前に読んだこんな話を思い出した。小学生の書いた「うさぎの耳は赤い」という作文を先生が「…長い」に書き換えたと言う話である。でも確かにうさぎの耳は赤いのである。白いうさぎの耳の内側に浮き出た毛細血管の描く模様は、手の平を太陽に透かしたときのように赤いのである。長いのも事実だけれど、赤いのもまた事実であり、その子は自分の感性でうさぎの耳は赤いと感じたのである。

 人はなかなか常識から抜け出せない。人は常識に従い、流れに従うことで世の中を渡ってきたのだし、これからも平穏に渡って行くためには、無意識の常識が時に人生の潤滑油になることを、これまで経験してきた多くの出来事が教えてくれている。そして過酷かも知れないけれど非常識が時に失敗という報復をもたらす恐れのあることも…。
 こうした子供の感性の表現は予測不能で、不意打ちでやってくるから、逆におろおろしてしまい、自分の気持ちをどう整理していいか分からなくなってしまうことが多い。

 家より高い場所にいるその子供は、やがて景色そっちのけで母親手作りの昼食を広げ始めた。
 私はまぶしいほどの青空の下に広がる「家より高い街並み」を、背伸びしながら深く息を吸い、もう一度ゆっくりと眺める。

 「あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川…」、なんの脈絡もないままに思い出した高村光太郎の智恵子抄の一節をその景色に重ねながら、私はゆっくりと山道を降りはじめる。
 なんかとても得したような、そんな今日である。