やり遺したと感じてしまうことどもへの鎮魂歌

 多分それは実に平穏で、平凡だけれどありきたりな人生を送ってきたことの証左というか裏返しなのかもしれないと思いつつも、己に黄昏を重ねる頃になってこれまでを振り返るのもいわば年齢のせいかも知れない。
 だからそれは、例えどんなことがあっても結局はほどほどの安定した生活と、妻であるとか子供であるとかそして更には孫などを含めた社会や家族や家庭が、自分勝手な思い込みではあっても、常に己を許容してくれるという、そうしたわがままに裏打ちされていると言う前提が常にある。

 少なくともこの身は社会であるとか職場であるとか家庭などと言う安定した組織の中にその存在の全てを委ねつつ、その中で努力し評価されることに生きていることの意味を持たせてきたのだし、そのことに豪も疑いを持つことなどはなかった。
 ただ、「別の生き方はなかったのだろうか」という思いは、こうした平穏な生活を送って来た者の驕りなのかも知れないけれど、時に発生するぽつんとした空白の時間の中で、繰り返し繰り返し脳裏に去来する現象でもある。

 そしてそれは多分、仕事につながるものではないだろう。ましてや金を貯めることでもなく、若しかすると正義であるとか真実であるとか貢献などと言った社会的に是認される思想に裏打ちされた行為ですらないのかも知れない。
 きっともっとどろどろしたものであり、許されないものとして己の中に閉じ込めていたものであり、精神の底のほうに人に見せず、己自身にも秘していた澱んだ滓のようなものなのかも知れない。
 生きがいなんぞという生易しいものではなく、答えのない、暗闇に潜む見えにくくしかも決して消えることのない、そして消せない熾き火のようなものなのかも知れず、恐らくそれは満たされることのないものとして、己の人生の中に始めから組み込まれていたものなのかも知れない。

 田沢湖伝説の辰子姫は、永遠の若さと美しさを願い、泉の水を飲めとの観音のお告げに従う。
しかし泉が枯れるまで飲み続けても乾きは癒されず、やがてその身は龍と化して雷雨を呼び山津波を起こして田沢湖を作り、そこの主になったという。それは若しかすると癒されることの許されない心に潜めたままの久遠の乾きだったのかも知れない。

 そしてそれは例えば芥川賞やノーベル賞を狙うとか、はたまた宇宙旅行に挑戦したいと言うようなどちらかと言えば自身にとっての荒唐無稽な願望であるならば、それはそれで整理と言うか始末は可能だということができるだろう。
 だが、それは決して解決されることのない一つの観念として、いつまでも初老の人生を後ろ髪のように追い続ける。

 「それって一体なに?」と問われて、口に出して答えることにはまだまだ未練の多い生きざまを続けているこの身にとって、いま少しの時間が必要な気がするし、せめて酒酌み交わす同い年の酔いどれ集団の中にこの身を置き、酔いに任せて、ふと一言二言を愚痴ともつかず嘆きともつかず諦めともつかずに、「あんたのそれとおんなじだよ…」と呟くのが関の山なのかも知れない……。