めるへん
 メルヘンとは血だらけなものであると言ったのはカフカだったろうか。グリム童話は地方に伝えられた物語をまとめたものだが、その中の傑作白雪姫の原話では、白雪姫を殺そうとしたのは継母ではなく実母であったという。
 継母と先妻の子という、どちらかといえばある程度理解できる葛藤、ドラマとしての自然さが、一転して童話の世界とは異質な、救いようもなくおぞましい現実としてわれわれの目の前に現れる。
 そういえば、カチカチ山の残酷さには目を覆うものがあるし、何気ない民話の中にも、平凡一徹な主人公に、扱いきれないほどの力や富を突然に与え、しかもその扱い方を誤ったからという理由で突然にその力を取り上げてしまう話が多い。
 めくるめく力の付与と突然の喪失・・・。このパターンの残酷さには、その主人公がいかにも朴訥で善意に満ちているいるだけに、われわれに何を教えようとしているのか、戸惑いを覚えることも確かである。

ことば
 人は、バベルの塔を造ることで神への挑戦を試みた時から、他人の言葉を理解できなくなったのかも知れないが、一億人を超える日本人の全部が、そろって日本語を話すということは、われわれが当たり前と感じているほど当たり前のことではない。
 英語とフランス語を公用語とせざるを得ないために、すべての公的な言語生活を二言語で行わなければならないカナダ、三つの公用語と四つの国語を認めるスイス、そして一枚の紙幣に十五種の言語で金額を表示しなければならないインドなど、単一の国語のみで生活のできる国は先進国では恐らく皆無であろうと聞く。
 もちろん日本語にも多くの方言があり、場合によっては意思の疎通が難しいケースもないとはいえない。
 しかし日本では、どの街をいつ歩いても、ラジオ、テレビでも、会議でも、男でも女でも、子供でも老人でも、どんな顔つきの人にでも、日本語の通じることを疑うことはしない。街角で、商店で、見知らぬ人と話をするときでも、相手に自分の言葉を理解してもらえるだろうかなどと考えることはまずないといって良い。
 世界には約三千数百の言語があるといわれ、その中で日本語は使用人口で六位を占めるという。あらゆるものを取りこんで変容していく日本語ではあるが、やはり日本をこれだけの大国に育て上げてきたシタタカな力が日本語にはある。