きけん

 実際のこうした危険にぶつかる機会はそんなに多くはないから、結局テレビドラマや映画からの連想にしか過ぎないものになってしまうが、危険に対する日本人の行動パターンには、外国人とかなり異質なものが感じられる。

 場面を、母と子、そして迫り来る危険に設定して見よう。日本の母は必ずといって良いほど、その危険に背を向け、子を自分の腕の中へしっかり抱え込むことでその危険から逃れようとする。そしてその傾向は、その危険が近づけば近づくほど激しくなり、子に及ぶ危険を自分の背で受け止めようとするひたむきな姿勢のために、子は身動きすらできない状況に置かれてしまう。
 こうした状況は、例えば焼死のニュースの中などにも多く見ることができる。

 これに対し、日本以外では母はまず子を背後にかばい、対象を見据えるとともに、両手を広げて迫る危険に正面から向かい合う形をとる。
 そして必要な場合、子にできることがあれば自分に協力させる体勢、または子の力だけでその危険から逃れることのできる体勢を維持しようとする。

 こうした姿勢の違いは、決まった土地に定着し、台風や凶作が過ぎ去るのをひたすら耐えることことだけで対処していかねばならなかった、農耕民族としての日本人と、常に危険との闘いの中で相手を倒して生き延びねばならなかった狩猟民族との違いにあるのかも知れないが、国境を持つことなく過してきた日本人のテーマには色々な面で興味深いものがある。


しあわせ

 山のあなたにはかない望みを託すこと、つかまらない青い鳥をいつまでも追い求めること、そして時には「他人の不幸を見ている内に沸き起こる快い気分」(ビアス)にしか過ぎないなどと、いつのころからか訳知り顔に思いこんでしまったのであろうか。

 凡庸な生活にすっかり馴れた頭では、振り返り振り返り過去の頁をめくり返しても、己の生きざまに時の翼を与えることはできるべくもない。

 怠惰な生活の中でふと読んだ一節が、「・・・・幸福はあったかい犬を撫でること、外で雨が降っているときベッドに横になっていること、はだしで草の上を行ったり来たりすること、泣きじゃくってあとで涙が乾くこと」(チャールズ・M・シュルツ)・・・・。余りにも強烈に己を打ちのめし、・・・・それもやがて酔うた頭の中で汚れにまみれ、時はまた確実にそれを排泄する。
 永い永い混沌の時が始まり、意思もなく感覚もなく、人格もなく、孤独を感ずることすらなく、眠ることも目覚めることもなく・・・・。

 オンボロローと夜通し飯を炊く女の哀しさにも、鈍磨した己の心はいつしか反応しなくなった。
 禁断症状が麻薬を求めるように新しい感覚を求めるさすらいの心へ、いつ挽歌を捧げてしまったのだろうか。

      こころのおくに
      こえがある
      こころひとりの
      こえがする


十八歳の精神を病んでいる男の詩である。
 人はどこへ行こうとしているのだろうか。