紙おむつとベビーフード

 ユーゴスラビアのコソボは、停戦から約3ヵ月が経ったけれど、依然として苦しい生活が続いているらしい。
 もうすっかり戦争体験を忘れてしまっている私だから、コソボの状況を理解していないままこんなことを言うのは当を得ていないかも知れないが、どう考えても変だと思えることが最近の新聞に載っていた。

 3月24日の道新朝刊は「難民を助ける会」からの報告として、こんな記事を載せている。
 「紙おむつが買えない」というタイトルだから、いきおいその報告も紙おむつに偏るのは当然のことだと思うが、コソボの「最も深刻な問題は、「収入のないこと」であり、「夫が丸一日働いても収入は40枚入り紙おむつを一パック買えば、残りはなくなる」ような状況なのだそうである。ここまでは良く分かる。

 しかし、それでも記事の中の女性(母親)は「赤ちゃんのことだけ考え」、「夫の収入を全部紙おむつとベビーフードに回している」のである。なぜなら、「親はどんな我慢でもできるけれど、赤ちゃんは待てないから」である。
 そしてこの助ける会では、紙おむつ配付の資金を新聞の読者らから、「コソボおしめ」と明記させた上で募集しているのである。

 何かどこかで、重大な前提が抜けているのかも知れない。紙おむつしか使えないギリギリの状態、ベビーフード以外に赤ちゃんの食事を用意できない特別な状況・・・。
 でも、何度読んでも、月2〜3回の断水以外には特別な事情もなく、不在の親の家とはいえ、「(家族7人で)衛星放送の受信できるTV、ビデオ、そしてステレオもあり、室温も暖かで快適だ」。・・・とすれば、これは一体何なのだろうか。

 確かに紙おむつは快適であり、便利であり、私自身、育児する娘の状況や時に手伝う孫のおしめ替えの経験からしても、現代の生活必需品であって、極端に言えば『なくてはならないもの』であることも十分に納得できる。
 でもそのことと、「収入は全部紙おむつとベビーフードに回す」こととは別のことではないだろうか。ましてや、募金を集めて紙おむつの配付を支援しようと考えること自体、どこか変、絶対に変である。

 紙おむつを貰う側も、与える側も、どこかで間違っているのではないだろうか。
 これは、紙おむつが勿体ないと言っているのではない。紙おむつやベビーフード以前に、もっと生き抜くための、そしてたくましく育てるためのやることがあるのではないか。

 昔から親は子供のために努力してきたし、子はそのひもじさや貧しさに耐えて我慢を学び、そし親も子も知恵を出し工夫することを覚えてきたのではなかったか。

 飢えという言葉の意味さえ子供たちに伝えることのできなくなっている今の時代ではあるけれど、ひとりの事務所でふとこんなことを考えてしまいました。私のほうが変?。

                          佐々木利夫