最近の新聞投稿である(読売、9.1)。電車内で目の不自由な人が捨ててあった空き缶につまづいて転んだ。それを助けた70歳の男性の嘆きである。

 「・・・席を譲りもせず、転んでも知らんぷりの乗客。床を転がって危険な空き缶を、誰一人として拾いもしない情けなさに腹が立つ。自分さえ良ければいいという身勝手な行動で、弱者の安全はどんどん奪われている。」

 言ってることは十分過ぎるほど分かるのだが、空き缶を「誰一人として拾いもしない」という表現に少し違和感が残った。「誰一人」と言っているけれど、その意味は「(空き缶が放置されているのを知りながら)誰一人」という意味だろけれど、その中に自分は入っているのだろうか。
 話の流れからして恐らく自分は含まれていないだろう。つまり、「私は気づかなかったけれど・・・」という内容なのだと思われる。
 そうだとすると、空き缶の放置されている状態を「私以外の人は事前に知っていた」ことを前提にするのでなければ、この投稿者の話は筋が通らないことになる。

 なぜなら、彼は空き缶を車内に捨てたことに抗議しているのではなく、それを拾わないまま危険な状態を放置している行為に抗議しているのであるから、空き缶の落ちていることに車内の人が気づかなければ、誰も拾おうとしないことは当たり前のことなのだし、拾わないことを責められる必然もないからである。

 そうすると、投稿者は「私以外の少なくとも何人かの人は空き缶の放置を知っていた」と思ったからこそ、こうした「放置の状態を知っていた人たち」に対して「拾うことなく無視した」行為、つまり不作為に非難の目を向けていると言うことになる。

 さて、こう考えてくると、この老人はどのようにしてその人たちの「空き缶の放置を知りながら無視した」という事実を知り得たのかが疑問になってくる。
 つまり、彼は転ぶという事故の発生で、自分としてははじめて空き缶の存在に気づいたと言っていることになるのであるが、そのことと「私以外の人は空き缶の存在を事故の起きる以前から知っていた」こととは明らかに矛盾するのではないだろうか。

 事故の発生で「私は始めて空き缶に気づいた」のなら、車内の人々に対してだって同じ条件を認めても良いはずである。にもかかわらず、彼は「私以外の人は事前に知っており、かつ放置していた」と言う。
 そうすると、彼の発言の意味するものは、同時に自分も空き缶の存在とその危険性を事前に知っていたことを表しているのではないだろうか。

 もちろん、知っていても行動できない場合だってありうる。体調が悪くて動けないとか、車椅子に乗っていて機敏な動作がとれない場合などである(もちろん面倒だからとか眠いから後回し、などと言う言い訳は論外だろう)。
 でもこの投稿者はその空き缶で転んだ人を助けているのである。転んだ人を助けるという行動は、恐らく機敏に動けるからこそ可能なのではないかと思う。

 そこで私は思うのである。彼は恐らく「普段から席を譲ってくれる人の少ないこと」へ抗議したかったのだろう。そしてそれは「老人であり、弱者である私の無視」であり、それが日常の現実なのだろう。

 マリー・ローランサンは「・・・死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」(鎮静剤)と歌ったけれど(別稿「詩人としてのマリー・ローランサン」参照)、無視されるということは存在しないことと同義なのである。それはもしかすると、死よりもつらいことなのかも知れない。
 だから、そのことがつい勇み足になって、「空き缶につまづいた目の不自由な人」と「それを助けた自分」を重ねて、自分がそこに存在していることを訴えかけるとともに、いたわりの心を忘れてしまった回りの人々の無関心に抗議したかったのだろうと思うのである。

 少し誇らしげな自分、無視され続けている自分・・・・、その両者の葛藤が、この投稿には表れているような気がする。

 こんなことに揚げ足をとって、転んだ人を助けた行為に水を差す必要はないと思うし、そもそもそんな気持ちを持っている訳でもない。投稿者が空き缶の存在を事前に知っていたか知らなかったかで、転んだ人を助けた行為に点差をつけようとも思わない。

 私がこんなことを書いたのは、この老人の投稿文の矛盾に異議を唱えたかったからなのではない。
 老人にも空き缶にも無関心で身勝手な行動が当たり前のように広がっていく現実に、しがみつくように抗議している老人の声が、その発言が矛盾している分だけ、なぜかとても切なく感じられたからなのである。
 
                       2004.09.07    佐々木利夫


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