「世界がもし100人の村だったら」をキャッチフレーズにしたテレビ番組や本がある。そこからの引用だけれど、「17人は安全な水を飲めない」のが現実だそうである。
 現在の世界の人口はおよそ64億人と言われているが、我々はある数が自分の経験や想像の範囲を超えてしまうと実態についての理解が遠くなり、仮想じみた感覚を受けることがある。例えば何千万人の飢餓であるとか、何兆円の赤字、飲料水に含まれる有害物質のppmなどがそれである。
 人は実感できる数字には大きいにしろ小さいにしろ限界があるのかも知れない。そうした意味で、100人を単位として事象を捉えることは、そうした我々の限界を広げ理解を早める効用があると言えよう。
 しかし、同時にこのタイトルのような発想はまた、重大なミスを犯すことになる。なぜなら、世界を100人の村にしてしまったらその村は世界の縮図ということになるから、その中の一人とは6千400万人を示すことになってしまい、この数に満たない事象はすべて切り捨てられることを意味しているからである。
 そして、日本の人口約一億三千万人弱をこの世界に当てはめると僅か二人しか存在しないことになるのである。
 ここで言う一人とは個人としての一人であり、統計的な意味での、例えば一人の人間の100分の17だけ安全な水が飲めないという意味ではないことは明らかだろう。10パーセント飢えているとか5パーセントだけ死んでいるなどという発想はありえないからである。
 そうすると統計的なデータを十分持ち合わせていないから、直感で言うしかないけれども、恐らくその世界に犯罪者は居ないことにならないか。交通違反や窃盗などは分からないけれど、少なくとも殺人者や強盗犯やテロリストが人口の1パーセントを超えているとは思えないから、この世界は犯罪者の居ない平和な世界である。
 そして更には精神を病んでいる人も、身体に傷害のある人も、若しかすると病人すら居ないのかも知れない。
 もちろん、小説家も詩人もピアニストもアインシュタインもゴッホも、もちろん、もちろんヒトラーだって居ないのである。
 でもそれを国と呼ぶならば、少なくとも一人の代表者はいるだろう。そしてその一人は必ずワンマンである。なんと呼ぼうと独裁者である。国を維持していくための経済活動や生産活動のためにそんなに沢山の政治家は要らないからである。
 100人と言うのは、人間を大体100歳まで生きると考えるならば、その村は0歳から100歳までの人間が一人ずつしか居ないことになる。「世界の平均年齢は100歳じゃない、飢餓や貧困や戦争などでもっと低い」というならば、仮にそれを認めて思いきって50歳まで下げて見よう。男女が同数とするなら、やはり各年齢ごとに男一人、女一人であるし、そうした場合、その国には50歳を超える老人は居ないのである。
 つまり、100人の村の発想は、小数点以下を認めないという重要な誤りを犯しているということなる。
 果たして個性と言うものがどこまで認められるのか、どこまで認めたらいいのかは難しいことだけれど、人間は平均なのではない。ひとりひとりが、一人として大切だと考えることが、今の社会を作り上げている基本なのだと私は思う。
 全体を100人とする発想は、理解しやすい面があることは否めないけれど、0.99以下の事象のすべてを無視し、考えないことにするという、とてつもなく危うい発想が潜んでいるような気がしてならない。
 なにしろ一番の問題は、その世界には「私」が居ないということである。なぜなら、今これを書いている60歳をとうに超えている私は、その世界が50歳までの人間で成立しているとするならば存在しないことになるし、仮に100歳まで許容するとしても、この私が、「世界の同一年齢の平均値たる唯一の一人」、具体的には「すべての日本人を代表する男女合わせて二人のうちの一人」であるとは、到底思えないからである。
 つまり、私は居ないのである。傲慢と言われればそれまでかも知れないけれど、私の居ない世界は、私にとって存在しないのだと私は頑固にも考えているのである。




                                     2003年    佐々木利夫


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百人の村