餌をあげる
  

 世の中ペットばやりである。生活の豊かさの表れなのか、物言わぬ隣人を求め始めたのか、老人世帯が多くなったことによる我が子の代用なのか、それとも、それとも、人に逆らえないペットに向かって自らが君主帝王であることの地位を確かめたいのか、それは分からないけれど、目に見えてペットの飼育が大流行である。

 それにつれて、通常の会話でも、テレビなどでもペットを巡る話題が多くなってきている。ただ、それにしてもペットに対して、「餌をあげる」とか、「世話をしてあげる」という言い方はないだろうと思ってしまう。
 「あげる」は「差し上げる」という意味であり、謙譲語である。謙譲語とは、自分の動作や状態、自分の持っている物や所属する組織などを低く扱い、そのことで間接的、相対的に相手を高めることで相手への尊敬を表す言葉のことである。
 つまり謙譲語の出来上がってきた背景は、「相手を尊敬する」ことであり、だからこの言葉に並んで、例えば「謙譲の美徳」などという表現もされるのである。

 謙譲語が日本語固有の使われ方なのか、それとも言語としてある程度世界に共通して使われているのか、私にはそこまでの知識はないけれど、少なくとも一種の「美しい日本語」を作り上げている大切な要素の一つなのだと思っている。

 もちろん極端な尊敬語や、あまりにもへりくだった謙譲語の使い方が、本来の尊敬の気持ちや丁寧さを阻害している例があることを知らないわけではないし、そうしたへりくだりの意味を失ってしまって単なる慣用語として定着している例のあることも承知している。

 それにしても、犬や金魚や小鳥などのペット、いやいやペットばかりではない、野生のカラスやそれ以上に最近では自分の子供に対してすら、目上の人に対して自らがへりくだるように食べ物や餌をあげたり、おもちゃや水をあげたりするこの言葉の使い方には、どうしても違和感が残って仕方がない。

 「赤ちゃんにミルクをあげる」ことに、なんとも思わない人が増えてきた。赤ちゃんは小さくて柔らかくて可愛い、だから、そういう対象に対しては言葉も優しく柔らかいほうがいいと思っているのかも知れない。だから、そのことをそれほど不自然だとは思わない。赤ちゃんに向かって自分を召使いの立場に置き、ご主人様のお気に召すままに「ミルクあげましょうね・・・・・」と話しかけるのは、むしろ自然なことだとも思えるからである。
 なにしろ相手は天下無敵の「赤ちゃん」なのだから・・・・。

 しかし、それは母親が赤ちゃん自身に向かって話しかける場合だからいいのであって、それ以外の人が赤ちゃんに対して「ミルクをあげる」などとのたもうのは、やっぱりルール違反になるのではないかと思っているのである。

 こうした謙譲語の誤用は、知らず知らずのうちに増えてきているような気がする。最近食べたお菓子のパッケージの文言である。「このお菓子は、冷蔵庫で冷やしていただくと、一層おいしくいただけます」。
 この「いただく」は二つとも謙譲語であり、自分をへりくだることで相手を尊敬し、そうした上でこのお菓子を食べることを意味しているのである。だからこの言葉は、このお菓子を食べる人、つまり購入したお客さんが目上の人に言うべき言葉なのである。

 ところがこの文章はメーカーの意見を述べたものであり、主語である「このお菓子は」は、「我が社の製品は」を意味している。これに対し述語の「いただけます」は、購入した消費者の言葉になっているのである。
 まさにこれは謙譲の強要である。余計なお世話である。冷やしたほうが美味いのであれば、「冷やしてお召し上がりください」と書けばいいのである。なんでもかんでも丁寧らしそうな言葉遣いをすればいいというものではない・・・・と思っているのである。

 猫に餌をあげたり、花に水をあげたりするくらいのことは、対象が家族同然に愛しているペットや気持ちを和ませてくれる花なのだから、そうした思い入れがそうさせるのだと思うことで、それほど目くじらを立てるほどのことはないと言えるかも知れない。

 私もそうした思いの分からなくはないのだが、ただこうした謙譲語の誤用は、謙譲語そのものの地位を低めてしまうという効果を与えてしまうのではないかと心配なのである。
 「金魚に餌をあげる」ことを当たり前の日常語として許容してしまうと、例えば、先輩や上司に向かって「お菓子をあげる」という謙譲語の表現が、逆に相手をペット扱いし卑下しているような、そんなイメージを社会的に作り上げてしまう恐れがあるのではないだろうかと心配なのである。


                         2004.11.22    佐々木利夫


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