環境問題は恐らく今の地球にとって最大の関心事だろう。あらゆる良識派と称する人たちが、こぞって環境破壊の危機を訴えていることは衆目の一致するところであり、地球温暖化防止を目的とした京都議定書が最近ロシアで批准が閣議決定され、来春にも国際的に発効するかどうかも大きな問題になっている。
 そしてそれに輪をかけるように、台風の上陸日数更新も地震被害の増大も長雨による災害も真夏日日数の更新も、なんでもかんでも環境汚染に結びつける風潮が盛んである。

 しかし様々な人々が様々に叫んでいる地球の環境を巡る問題ではあるが、「環境」とか「自然」の意味が今ひとつ不明確に感じられて仕方がない。
 「人間は自然破壊をしてきた。だから緑多き山野を復活しよう」と人は叫ぶ。でもその人たちの想像している自然とは一体どんなものなのだろうか。
 話としては、例えばブルドーザーが走り回り、山を削り木を切り倒して団地を作ることや、海岸を埋め立てコンクリート護岸を設けてリゾートホテルの建設をすることなどは、環境破壊の分かりやすい例ではあろう。恐らくだれもが東京都心のコンクリートジャングルと騒音と排気ガスに囲まれた生活を、「自然だ」などと思うことはないであろうから・・・。

 でも、それでは何をイメージして自然と言っているのかは、実は叫んでいる本人もよく分かってはいないのではないだろうかと思う。
 自然を叫ぶ人の意識の中にある自然とは、恐らく自分がかつて経験したか、もしくはそれが「自然の姿」だと思い込んでいるような、例えば抽象的な「田舎」であるとか、「里山」などであり、更には「ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川」のイメージの延長にあるものなのではないだろうか。

 仮にそうだとするならば、その人たちが、「豊かな自然としてイメージしている自然」とは、実のところ本当の自然ではなく、作られた自然であると言わざるを得ない。山には道がついていて、そこを通って山菜や薪を取りに行ったのだろうし、小川には目の前か遠回りかはともかく、橋がかかっていたはずである。だいたいが、人は木を切り倒して平地を作り、そこに家を建て住んできたのではなかったのか。
 生きるために人は、自然を破壊してはそこを田や畑とし、山を駆け巡つては獣を殺し、船を作って魚を獲ることで生活の資を得てきたはずである。

 たとえば、日本にはたくさんの棚田がある。千枚田とも呼ばれ、そこに写る月影は田毎の月などとも詠われる優雅な風景である。そうしてこのような風景は、「文化的景観」などともっともらしい名前がつけられて、そうした風景を大切にし保存することが自然を大切にすることなのだと教えようとしている。
 しかし考えるまでもなく、これが原自然でないことは明らかである。確かにコンクリートで作られたダムや護岸工事とは異なるけれど、千枚田といえどもやはり作られた景観、人工の景観でしかないのである。考えようによっては、ついこの前までは、近代的な人工の構築物だったと考えることすらできるのである。

 こういう風に言ってしまうと、「それでは自然とは人の住まない、もしくは住めない原始林のことを言うのか」と開き直られることにもなりかねない。そしてそうした定義を基本として議論するのなら、それは単なる空論でしかないとも・・・・・・。

 それはそうである。いまさら弓矢を持って山野を駆け巡る原始生活に戻ることが自然なのだ主張することなどはまったくの空論であり、たとえ環境と自然をテーマにしようとも、そこまでの前提を考える必要などまったく無意味であろう。
 だとすれば、どこかで折り合いをつける必要があるのであり、その折り合いとはそれぞれ人によって異なるかも知れないけれど、例えば田舎や里山のイメージを基礎においたとしても、それはそれでいいじゃないかと人は言うかも知れない。

 こうした考えには私も反対ではない。人間の歴史は自然破壊の歴史だったのだし、そうすることでしか人は生き延びていくことができなかったのだから。
 私の事務所のある琴似地区には、今でも「八軒」とか「二十四軒」という町名が残っている。恐らく北海道開拓時代のすざまじい自然との闘いの中で、僅か八軒や二十四軒の開拓者がその地に肩寄せ合って厳しさに耐えてきた名残なのだろう。
 開拓の始めから人は自然を破壊することで生き延びてきた。開拓の歴史は苛酷な自然との壮絶な闘いであるけれど、自然との闘いとは言葉を変えて言うなら、とりもなおさず自然を破壊してその地を人の住みやすい土地、生活できる土地にすることであった。
 そして今やそうした先人の努力は完全に報われ、僅かに記念館や記念碑にその労苦が刻まれるだけで、自然破壊はものの見事に完成した。町は碁盤の目に仕切られ、街路樹以外はコンクリートに埋め尽くされている。

 今でも、例えばアマゾンの焼畑による森林消滅や東南アジアの無計画な森林伐採による砂漠化などが、環境破壊の例としてマスコミなどでも大きく取り上げられている。そうなった原因にはさまざまなものがあるとは思うけれど、一番単純には需要があってそれに対する供給の必要があげられるだろう。自然破壊を繰り返すアマゾンの農家や東南アジアの木材業者を責めることはたやすい。
 しかし、そうして生産された農産物や木材を利用しているのは、実は我々であると言うことにもう少し気が回ってもいいのではないだろうかと私は思う。

 少し話しが遠回りしてしまったが、私は自然破壊を非難し、自然保護を高らかに叫んでいる人々の、その主張そのものに異論があるわけではない。
 ただ、私も含めての話ではあるけれど、人は常に自然破壊者であり、環境破壊者であるという事実をどこかでしっかり意識しておく必要があるのではないかと言いたいのである。

 どんなに正論を述べる人であったとしても、彼もしくは彼女は恐らく、車を持ち、家を持ち、食べ物を仕入れて料理し、食べ、加工された衣服に包まれて生活していることだろう。そうした正論を述べるだけの知識や能力を持ち、そうした発表の機会を得られるような立場の人であるならば、電化製品も持ち、酒も飲み、舗装道路の完備した町に住んでいるだろうと思う。それらはすべて環境破壊からの贈り物である。

 つまりは、我々は「環境を破壊した上に成立している社会」という現実から抜け出すことはできないということなのである。そしてそのことを、我々自身がきちんと理解しておかなければならないのではないかと思うのである。

 だからと言って、「そういう事実を理解もしないで、もったいぶって自然保護などという安易な言葉を吐くな」、などと言いたいのではない。自然破壊、環境破壊は人類生存の歴史そのものなのだから、それを否定しようなどとは決して思わない。
 ただ、「自分もまた自然破壊者であることから逃れることのできない存在なのだ」という事実を、きちんと理解したうえで、そうした謙虚さを持って自然保護について語って欲しいのである。

 壇上で述べる正論はいつも堂々としている。特に命や環境についての正論は、理想とする彼方がだれにでも分かりやすく、見えやすいものだから、疑問を抱くことすら許されないかのように立派に見える。
 でもあんまり立派過ぎると、疑問というのではなく、なぜか言いようのない反発を感じてしまうのは、やはりどこか私がへそ曲がりだからなのだろうか。

 人間が環境を破壊しながら生きてきたことは、否定できない事実であり、同時に避けられない現実でもあった。だからこそその事実を見据えた上で、謙虚さをもって環境保護を主張して欲しいのである。そうすることではじめて、その主張は多くの人々の心に共感を呼び、染み込んでいくのではないかと感じているのである。

 それは、人が多くの動物や植物の命を消費することで自らの命を保ってきたこととまったく同じことなのだから・・・・・。


                          2004.10.30    佐々木利夫


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環境問題と正論