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料理オリンピック
  
 今朝の民放テレビである。4年に一度のオリンピックはスポーツだけでなく料理にもあるのだと言う。その料理オリンピックに日本代表として参加する一人の男の努力と感動のドキュメントである。
 どんな料理で競うのだろうかと少し興味があって見ていたら、なんと畳2枚ほどのテーブルの中央に、でんと神社の鳥居が居座り、その周りに様々な料理が並ぶという趣向である。

 鳥居を据えたのは、国際大会における日本代表として、参加作品が日本の料理であることをアピールしたかったのだろう。そしてそのテーブルに飾るべっ甲飴の細工物が壊れていて、どうすればいいのかと悩んでいる姿も映し出されていた。

 それにしても料理とは一体何なのだろうか。ここに並べられた豪華で色鮮やかな作品は、なぜか料理ではないと感じた。これは食材を使った単なる巨大なモニュメント、建築であり、そこからは食べるという基本的な思いが何一つとして伝わってこなかったのである。

 確かに食べられる材料で、食べられるように作ってはあるのだろうけれど、ここにあるのは食べるために作られたものではない。色も形も素晴らしいし、見た目にしか分からないけれど恐らく味付けも一流なのだろう。それでもここにあるのは、美味いといって食べてくれるお客さんや、団欒の中に喜んでくれる家族をイメージして作られたものではない。審査員を意識し、他国の作品と競争して勝ち残るという審査のために作られた造形品である。絵画や彫刻や楽器の演奏などなんでもいい、どこかで人を意識した自分のイメージの発信とは異なり、「食べる」ことから離れてしまった単なる造形品である。

 料理は何のためにあるのかなどと言うだけの実力も持ち合わせてはいないし、言葉だけで無粋なことは言っても始まらないだろう。なにしろここは、国際料理オリンピックの会場であり、世界がこれを料理と認めた上での専門家集団による競技会である。味音痴もどきの口出しをする場面でないことは百も承知である。

 それでも料理の基本は「食べること」であろうと、私は頑なに信じているのである。もちろん食べることはまず味が基本だろうけれど、さりながら見た目も、香りも、温度も、舌触りから喉越し、更には器までかかわって来ることは、ど素人の私にだって承知の上である。もっと言うなら、どんな場所で食べるのかとか、どんな服装で食べるのか、誰と食べるのか、周りの景色や流れる音楽やそうしたものまで影響するだろうことも僅かだが分からなくはない。
 しかし、それでも「食べること」から離れてしまった料理というのは、一体なんなのだろうか。

 絵画の展覧会の審査がどういう基準でなされるのか、私には分からない。音楽コンクールの審査員が何を基準に優劣を決めているのかも分からない。
 それでも、絵の審査は絵を見て行うのだと思う。演奏の優劣は耳で聞いて判断するのだと思う。優勝を決定するまでのプロセスは知らないけれど、基本は見るとか聞くという、素人でも分かるところから出発しているのではないだろうか。

 料理が食べることから離れてしまったら、それがどんなに美味くても、どんなに高級な食材を使おうとも、それは「食材を使った造形」であり、オリンピックはそうした「造形の美しさの競技」であり、そのためのコンテストであって、料理とは別物ではないかと思うのである。

 料理なんぞと言うのもおこがましいけれど、この小さいワンルーム事務所も、時に仕事を離れて仲間との居酒屋に変身するし、その時には手抜き手間抜き味見抜きの男料理が定番になる。
 作る手間よりも一緒に食ったり飲んだりするほうが大切だから、どちらかというと鍋料理が中心となることが多い。集まってくる千円会費の常連は、それなり美味いと言って食ってくれるけれど、本当に美味いのかどうかは保証の限りではない。
 しかし、それでも減っていく材料と酒、そして数年にもわたって飽きずに繰り返されている居酒屋の盛況は、それなり人気を保っていることを示しているから、素人の料理だって満更でもないと勝手に自画自賛している。

 話を戻そう、その料理オリンピックに参加した一人の男の話である。レストランを経営しているのだが、オリンピック参加のために必要と自分の店に高価なスチームレンジを購入し、それでも足りずもっとほかに真空装置が欲しいと言っていた。

 確かにこのオリンピックは、「ソースの中に泡一つ入っていても減点される」という競技らしい。だからそのためには真空装置が必要なのかも知れない。
 でもそのことと料理がどんな関係にあると考えたらいいのだろう。優勝するために必要なのだと言われれば、それはそうかも知れない。その装置を使うことにより僅かにしろ得点が増え、それで逆転優勝が望めるのかも知れないのだから。

 そのことを否定するつもりはない。しかし、なぜか私はこの真空装置を欲しがる気持ちに、例えば「この絵を描くにはこの色の絵の具が欲しい、この色がないとこの絵は完成しない」などという発想とは、まるで異質な感じを受けてしまったのである。

 もともと私に料理を語るほどの薀蓄はないし、味覚だって空腹を判定基準にしているようないい加減なものだから、そんな身で料理オリンピックにいちゃもんをつけようだなんて思いもしない。
 ただ私の中でどうしても、「料理は食うもんだよな」という思いが消えないのである。料理オリンピックも最後は食うのかも知れないけれど、食う前の様々なセレモニーというか採点のための道具立てが、どうしても「料理」という身近であるべき姿と両立してこないのである。

 そして思うのである。恐らく私の作った小さな事務所の居酒屋の、仲間と囲む寄せ鍋なんぞ、きっとオリンピックでは零点なのだろうなと・・・。
 そしてそして、「おっ、今日は牡蠣か、いいね・・・・」くらいの感想で、ビールだ日本酒だと続き、仕事での疑問や困ったこと、果ては地震の話からイラク戦争まで、好き勝手に盛り上がるこの居酒屋は、それでも楽しいのである。零点の料理でもその楽しさに十分に寄与しているのである。「うめー」なんて相好崩しながら食うような場面は決してないけれど、それでも鍋はどんどん減っていくのである。

                     2004.11.23    佐々木利夫