短大で講師をしているという僧侶の嘆きである(読売新聞、17.7.21)。

 「お盆がやってくる。いつも気になっているのが墓地のお供え物の扱いである。お供え物は尊いご先祖様に心を込めて上げるのだから、その行為は大切である。しかし・・・、お供え物は上げたらすぐその場で下げて皆でいただくのが本来の姿である。放置されて腐り、異臭を放っているお供え物は、結局、我々の方で捨てることになるのだが、その時は、『もったいない』という罪悪感と『自分で下げろ!』という憤りが交錯する。・・・ご先祖様をゴミの中においてはいけない。」

 この気持ち、分からなくはないのだが、どこか自分勝手な意見のような気がしてならないのである。それは、「お供え物は上げたらその場で下げて皆でいただくのが本来の姿である」という考え方である。

 私は仏教どころか仏事に関する基本的な理解すらないからこんな風に思うのかも知れないけれど、こうした「本来の姿」であることを知識としてすら知らないのである。
 また、墓地とはほとんどかかわりのない生活をしている我が身だから、そんなに正面切って言えるわけではないのだけれど、墓地で「お供え物を下ろして皆でいただいている姿」なんぞ、現実にも、またお彼岸のテレビ中継のニュースなどでも、はたまたテレビドラマの墓参の風景などでも見たことがないのである。

 もちろん、私が知らないということは単に私の無知であって、世の中の常識であるとか習慣と違っていることは単純に私の常識はずれを証明するものでしかないことは百も承知である。

 それでも私の知る限り墓地に花は放置してあり、後から来た人が新しい花に取り替えるなんて姿が日常的なのではないかと思っているのである。安手(?)のテレビドラマの見過ぎかも知れないけれど、花やお供え物が残されているからこそ、自分以外にもこの墓を気にしてくれている他者の存在に気づいたり、その花がどんな種類の花なのか、新しいのか枯れているのか、一体誰がいつ来たのかなどが、事件解決に執念を燃やす刑事の犯人探しのヒントになったりしているのである。

 だから私は思うのである。お供え物はまさに死者への贈り物である。美しい花を愛でて欲しい、おいしいご馳走をゆっくり食べて欲しい・・・、そうした思いを込めるのがお供え物のはずであると・・・。
 そうだとするなら、墓参に行ってお供え物を墓前にチラリ見せるだけで、ご先祖様に食べる暇も与えずに御馳走を下げてしまい、持ち帰ったり自分が食べてしまうなんてことはできないのが普通の人なのではないかと思うのである。

 沖縄では、墓地は大きな庭のようになっていて、そこでは時折大勢の親戚が集まって宴会のような行事を行うことがあると聞いたけれど、普通の日本人の生活では、墓地でご先祖様のためにその場で宴会をするなんて習慣はないし、また昨今ではそうしたゆとりのある墓地の広さなど望むべくもない。せめて、墓石を洗い、周りの雑草を抜き取って、お供え物を置き合掌するというのが多くのパターンではないのだろうか。

 もちろん物理的にお供え物をご先祖様が食べることはないから、放置されたお供え物は必然的に腐っていくだろう。それに伴い異臭の発生も当然である。

 だから「持ってきた人間が自分で始末しろ」という気持ちの分からないでもないけれど、そうした気持ちの中には「ご先祖様にゆっくりと見てもらいたい、心いくまで食べてもらいたい」と思う人々の気持ちをなんだか少しも理解していないのではないかと思ってしまうのである。

 現実にお供え物を放置していく人が多いから、この僧侶の憤りになっていると思うのだけれど、「置いたらすぐに持ち帰れ」とか、「後から後始末に来い」というような発想は、墓参に来る人々の気持ちをなんにも理解していない身勝手な感情から出ているのではないかと思うのである。

 僧侶は「ご先祖様をゴミの中に置いてはいけない」と言う。でも考えても欲しい。墓参に来た人はお供え物をゴミとは考えていないのである。
 そこに彼我の決定的な違いがある。僧侶にとってみれば墓石の前のお供え物はすべてゴミである。なぜならそれがやがて腐敗し異臭を放ってくるであろうことは必然であり、しかもそれをゴミとして場合によっては有料のゴミ処理料金を払って始末をするのは自分なのだから。
 しかし、墓参に来た人はお供え物を「ゴミだけれど持ち帰るのが面倒くさい」と思って放置したのではない。むしろ、せっかく供養のために持参した死者の好きだった花や食べ物を、見る暇も与えず、食べる暇も与えないままに持ち去ることのほうが、ずっとずっと墓参の意味に反すると思っているのである。

 お供え物の後始末が迷惑だと思うほどにも墓参に来る人が多いということである。墓地は、墓参を通じてこその墓地である。そして墓参あってこその寺であり僧侶であろう。閑散として墓参の人もお供え物もない墓地風景、それはまさしく寺の崩壊である。
 もちろん僧侶を葬式と墓地のみに限定して考えるのは間違いかも知れないけれど、それが現実でもあろう。そんなにたくさんの管理料を貰っているわけではないのだから、ゴミの後始末は迷惑だと思うのだとしたら、それは僧侶のあまりにも身勝手な驕りではないだろうか。

 お供え物が腐るのはご先祖様がそのお供え物を堪能したからである、堪能するには、ゆっくりとした時間が必要なのだと、フィクションでもいいから考えられないのだろうか。
 ご先祖様の食べ残しの後始末はお寺の方でやりますから、どうぞお供え物は墓前に置いていって下さい、そしてお盆やお彼岸や命日、できれば月命日にもぜひ墓参りに来てご先祖様を思い出してやってくださいと、どうして言ってやれないのだろうか。

 この僧侶の憤りには、どこか墓参する人の気持ちとはかけ離れたものを感じ、彼の関わっている仏教とはまるで無縁な経済的な合理性からのみ出てきた声のような気がしてならないである。
 もし僧侶が心から、ご先祖様はお供え物を墓前に置かれた瞬間に墓参に来てくれた人の気持ちを十分に理解してくれる思うなら、そう伝えるがいい。一方的にゴミと関連付けるなど言語道断である。自分の後始末の迷惑だけを考えた、しかもそれを迷惑と考えるという余りにもエゴな発想である。

 そしてこの問題を僧侶の思うように解決したいのであれば、まず第一に墓前にお供え物を置いていくことが墓参に来た人の素直な気持ちであることを理解した上で、次に長い時間がかかるかも知れないけれど、お供え物は直ちに持ち帰るという習慣が世の中に浸透するように、仏教としての社会との関わり中で人々にきちんと理解されるように努力していく必要があると思うのである。

 「ゴミは持って帰れ」だと・・・。一体お前はお供え物をなんだと思っているんだ・・・・と、偏屈男はついへそを曲げてしまい、・・・・・・それにしても今日は暑いですね。札幌も27度を超えました。



                          2005.07.21    佐々木利夫
 



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墓地のお供え物