世の中あんまりあわただしく変っていくものだから、どうしても結果だけを急いで求めることになりやすい。それはそれで仕方のないことではあると思うのだが、肝心の途中経過というか結論に至る証明がないがしろにされたり、確認が中途半端のまま答えだけを鵜呑みにさせられるような仕組みが多くなってきているのではないだろうかと色んな場面で気になってきている。

 一人の事務所はまさにのんびりの連続で、仕事のないときは本も読むけれど手っ取り早いのがテレビである。だが昼間のテレビというのは見流し・聞き流しというならいいけれど、やたら再放送やワイドショーが並んでいるものだから、ついつい教育テレビにチャンネルを合わせることが多い。

 とは言っても英語・フランス語、韓国語などなどの外国語講座にはいまいち実力がついていけないものだから滅多に触手が伸びることはない。だからと言って「いないいないばー」などのような幼児向け番組にもちよっとついて行けないのも事実である。ただ時間帯によってはけっこうな確率の高さで小学生向けの番組や高校生講座などにぶつかることも多く、それがけっこう面白いのである。

 その背景には私に小中学生程度の知識や理解力すらも部分的にしろ不足していることがあるのではないかとは思ったりもするのだが、番組を制作する側とか教える側もけっこう努力しているから新しい発想や知識に触れることも多く、それなり楽しいものがある。

 ただそうした中で、化学の実験などにいささかの抵抗を感じた。例えばある物質を熱して気体を発生させる。その気体の成分が何かを教えるのに、ある試薬を使う。出てきた気体を試薬である液体の中を通すと、やがてその液体が白く濁ってくる。それを示してテレビの先生はこんなふうに説明する。「この液体は○○という試薬です。これを白濁させるのは二酸化炭素です。見たとおりこの液体は白く濁りました。したがってこの物質を熱して発生した気体は二酸化炭素です」。

 それはそれで間違いではないだろう。そういう目的のために試薬を利用したのだし、試薬の性能は万国共通不変の原因と結果とを示しているのだと思う。
 だが、テレビの画面を見る限りこの試薬は匂いも味も分からない透明な単なる水である。確かに泡を通すことでその液体は白濁した。でもそれはそれだけの話である。
 液体が気体を通すことで白濁する現象が世の中にどれほど存在するかについて私はほとんど知識がない。でもこの試薬と二酸化炭素の組み合わせ以外にはあり得ないということはないだろう。

 このテレビの化学の実験は限られた番組時間の中で、この気体が二酸化炭素であることを証明したかったのだろうし、事実これで証明できたのかも知れない。高校入試の問題で、「○○を白く濁らせる気体は次のうち何か」という問題が出たらこの知識を覚えているだけで正解になるだろう。

 しかしその証明にはどこか抜けているような気がしてならないのである。私にはこの実験が液体に泡を通したらその液体が白く濁ったという、単にそのことしか示していないのではないかと思うのである。

 そんなこと言っちまったら、あらゆる実験と言う作業の前提や試薬などの存在そのものを否定してしまうことになるのかも知れない。でも私は、試薬の目的は試薬の性能を理解して始めて意味があるのではないかと思うのである。○○という試薬はどんな成分で、二酸化炭素と結合することでどんな化学変化が起きるのか、そういう基本を理解して始めて試薬の意味があると思うのである。そうした変化の構造をきちんと理解しているからこそ二度目の同じ現象に一度目の理解を重ねることができ、判断を誘導できるのだと思う。

 それを抜かしてしまうことは、そうした基本的理解を他人に預けてしまい、その試薬のとしての意味を理解しないまま結果だけを無批判に信じ込んでしまうことになってしまうのではないだろうか。

 世の中そうした基本的理解は、与えられた条件、つまり証明不要の真実として認識しておかないと先へ進めないと言われるかも知れない。法律や常識や慣習やしきたり、そうしたものがあるからこそ人は安心してそうしたレールの上を歩いていけるという理屈の分からないではない。なんでもかんでも足踏みして反芻し確かめていたらそれこそ時代に遅れてしまうのであり、場合によっては生活そのものが成り立たなくなるかも知れないのだから。

 でも考えて欲しい。なぜそうなるのかを知らないままに信じることを人は盲信と呼び、多くの過ちの根っこになってしまうことを歴史は諫めてきたのではなかったのか。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」ことだって論理の連鎖が続いている。風で巻き上げられた砂が目に入って盲人になり三味線片手に角付けで生計をたてる。三味線の需要が増えるから材料の皮を調達するために猫が殺されねずみが増え、増えたねずみが桶をかじるという論理である。

 たとえそれが僅かな確率にしろ成立するように見えたとしても、こうした実証されない理屈を無理やり通してしまうと物事の本質が分からなくなってしまうのではないだろうか。答えだけが先にあってそれに合わせるように筋書きを作ってしまったら、結局はその結論の正当性はどこかへすっ飛んでしまい、むしろ過ちを誘導してしまうのだと言えるのではないか。

 無意識の責めは私にもあるけれど、そんなことなどあり得ないと思い込んでいた科学の世界でも論文のねつ造が増えてきているという。
 世界で始めてヒトのES細胞(神経、臓器、筋肉、骨などなんにでもなれる万能細胞)を作ったとされ、ノーベル賞に近いと言われていたソウル大学黄(ファン)教授の研究論文は昨日(12.23)の韓国政府の調査委員会の発表でねつ造と断じられた。一昨日(12.22)夜のNHKのテレビ番組は昨年の再放送だったけれど「史上最大の論文ねつ造」と題して世界的な科学誌でもねつ造論文が年を追って増加しているデータを示すとともに、これまたノーベル賞に最も近いと言われていたアメリカベル研究所職員ヘンドリック・シエーンの超伝導を巡る壮大なねつ造が世界を揺るがした事実を伝えていた。

 その原因はどこにあるのだろうか。それは事実を確かめ論文を審査すべき人たちや検証すべき学者たちが権威や名声や結果の華々しさに幻惑されてブラックボックスを鵜呑みしてしまったからである。途中経過をチェックすることなしに答だけを盲信してしまったからである。

 「俺の目を見ろ、なんにも言うな」は、「黙って俺についてこい」と同様、日本的なしがらみを表す代表的な表現だとは思うけれど、そんな風潮は世界中に広まっている。白紙委任状に己のすべてを委ねることはどんな場合も実は大きな誤りになるのではないかと思う。

 疑問を持つこと、疑うこと、少し立ち止まること、振返って考えること、確認すること、考え直すこと、斜に構えてみること、本当かい?・・・と茶化してみること、どこか変だと感じるところはないか考えること、100点満点の答えはその事実だけでもう一度確かめてみること、そうした知恵を私たちは培っていかなければならないのではないだろうか。

 だからこんな盲信の風潮を見聞きするにつけ、わたしはこんな屁理屈を考えてしまうのである。
 「むかしむかし、身を隠すことがとっても上手に発達した小魚がいました。彼らは決して外敵に食べられることはなくなり、限りなく繁栄していきました。でも彼らを食物としていた中型魚はその小魚の身を隠す技術に追い付いていくことができず絶滅してしまいました。その結果、その中型魚を餌としていた大型魚も絶滅し、その大型魚に続く生物は人間も含めてその生存を許されることはありませんでした。
 かくしてその地方の海は小魚だけの天国になってしまい、やがてその小魚は海流に乗って世界中に広がっていきましたとさ。」

 食物連鎖の話は現代の環境問題をとりあげるときの定番にもなっている。そのことはとても分かりやすい例でもあるのだが、その理屈は余りにも正当に見える分だけ、どこか胡散臭いものがある。
 生物が自らが生き残るために様々な工夫を凝らしてきたのは、この食物連鎖から少なくとも己の種だけは逃れたいと考えたからではないのだろうか。つまり、食物連鎖から少なくとも己が種だけは逃れ、そうした連鎖を破壊する方法を選ぶことでその生き残りを図ってきたのではないのだろうか。

 あなたは「現実の事実は違う、そう思うのはあなたの身勝手な独断だ」と言うかも知れない。そのことを否定するだけの根拠を私は持たない。
 だがしかし、あなたが「事実が違う」というのはそうでない事実を証明しているのとは違うと思う。
 私が屁理屈にしろ言いたいのは「証明されてもいないのに信じている」というその事実のことなのである。

 ブラックボックスは入り口と出口しか見えない。「風」と入れると「桶屋」と出てくるのである。それを信ずるか否かはそれぞれの人々の知恵によるのだろうけれど、現代はブラックボックスの数が余りにも増えすぎてきているのかも知れない。
 それは決して「自己責任」という言葉だけで片付けてしまってはいけないのだと思うけれど、それでも盲信する安易さからは少し距離を置く努力が必要になってくるのではないかと思いつつ、様々な今年の出来事を振返り、「どこか変だなと感じること」にまとめられている私のエッセイの目次などを眺めながら、今日はクリスマス・イヴである。北陸に降り積もる大雪は札幌でも間断なく今も降り続いている。



                        2005.12.24    佐々木利夫


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