ぶんぶく茶釜
  
 童話というのは、少なくとも題名を知っているものならばそれだけでストーリーも自然に出てくるものだと思っていた。もちろん中には思い違いがあったり、登場人物が不確かだったり、場合によっては間違った筋書きで覚えている場合だってあることくらいは承知している。それでも人に聞かれたらその題名を知っている以上、あら筋くらいは出てくるものだとたかをくくっていた。

 ところがそのストーリーがさっぱり記憶に残っていないという作品にぶつかった。この「ぶんぶく茶釜」がそれである。
 狸の化けた茶釜がどこか屋外で日の丸の書かれた扇を持って綱渡りをしているようなイメージは浮かんでくるのだが、なぜ狸が茶釜に化けたのか、なんのために綱渡りをしているのか、狸はその後どうなったのか、この話にどんな教訓なり寓意が込められているのかなどなど、そんなことが何一つ浮かんでこないのである。

 気になってしまうとなかなかそこから抜け出せない我が性癖ともあいまって、知らないことは恥ではないとばかりに周りの何人かに聞いてみることにした。

 そうしたら同じような仲間がけっこう多いのである。同僚の一人は「和尚さんが出てくるよな、主人公は狸だったっけ」程度であり、中には「狸だってことは知ってるんだけど・・・」とこれまた覚束ない返事で私の理解と五十歩百歩である。

 わが女房殿の理解によれば、狸がお爺さんへの恩返しために茶釜に化け、お爺さんはその茶釜を殿様に見せてご褒美をもらう。それを妬んだ隣のいじわる爺さんが同じ事をすると今度は茶釜に手足が生えたために逆に叱られる、と言うものである。これだと綱渡りの入り込む余地はなくなるし、その上どこかで「花さかじいさん」や「こぶとりじいさん」などの話しと混線しているような気がする。

 かくなる上はネット検索か図書館での児童図書さぐりである。この際本屋の立ち読みだってかまうことはない。
 その結果、どうやら一般的に流布されているのは群馬県館林市にある茂林寺(もりんじ)にまつわる話のようで、概要は次のようなものである。

 貧しい狸の親子がひもじさに耐えかねて父が茶釜に化け母がそれを古道具屋に売ってその金で子供のための食料を買う決心をする。古道具屋の店先の茶釜を茂林寺の和尚が買うが湯を沸かすたびに悲鳴が聞こえそのうちに手足が生えるなどして小僧が大騒ぎ。それで茶釜は再び古物商に売られることになる。
 その夜、狸はその古物商に「家族と一緒に暮らしたいので他所へ売らないで欲しい、その代わりに家族全員で客に芸を見せて稼ぐ」と頼み込む。見世物で儲かった古物商は儲けの半分を渡して狸を解放するが、なぜか狸は元の姿に戻ることができない。これはきっと和尚を騙したせいに違いないと思った狸は茂林寺へ謝罪に行き、そのまま寺に居つくことになる。やがて寺は茶釜のうわさで繁盛し、そのためその茶釜は多くの人に福を分ける茶釜、つまり「分福茶釜」と呼ばれるようになり今でも寺の宝として大切に保存されている。

 
私の記憶している綱渡りのイメージはこの見世物になった部分から来ているのだろうと思うのだが、この物語の主人公はもともとタヌキではなくてキツネだったと言う説もあり、茂林寺バージョンはどうやら後から作られたものらしい。キツネが主人公の話しは見つけることができなかったが、茂林寺以外の話も見つけることができた。

 例えば、博打に負けて家も家財もなくしてしまった男が山道を歩いていて、罠にかかった一匹の狸を助ける。その恩に報いるため狸は近くの寺の和尚が茶釜を欲しがっていることを知らせ、自ら茶釜に化けて男に売らせる。和尚は「茶釜に少し錆があるからこすり取れ」と言って軽石でこすらせる。傷ついた狸は痛いと叫ぶので驚いた小僧がそのことを和尚に報告すると今度は水を入れて火にかけろと言う。あまりの熱さに狸は手を出し足を出して逃げ出す。狸は再び男のもとへ戻り今度は見世物になって男に貢ぐというものである。

 ここで終わる物語も多いがこんな続きを持つ話も見つけることができた。罠にかかった狸を助けるのは若者ではなくお爺さんになるが、博打に負けるところはほぼ同じである。助けられた恩に報いるため狸は茶釜に化けて売られるが、自分の体をこすられて傷つけられ逃げ出しす。次に遊女に化けて寿命を縮め、更に馬に化けて殺されたりするが、ひたすらお爺さんに尽くすというのである。そして死後この狸は神としてお爺さん夫婦に祭られたというものである。(島内景二著、エンデのくれた宝物、P150)。

 いずれにしても狸が茶釜に化けたのは金のためであり、その動機は子供を飢えさせないため、もしくは命を助けてもらった男の恩に報いるためである。そして茶釜になった後はひたすら化けた動機で受けた恩を、誰を裏切ることもなしに守りきろうとするのである。

 つまり狸は茶釜に化けたことで人を騙すのであるが、その騙しを生涯賭けて償おうとするのである。受けた恩、それは子供の命であったり罠にかかった自らの命であったりするが、それは化けることでしか報いることはできなかった。しかも騙したまま逃げ帰るという手段を狸は考えることすらしなかった。

 「茶釜に化け、人を騙して金を得たこと」を自らの生涯の罪として認識し、その償いのために一生を捧げるのである。神様として祭られるとは言っても、遊女になり馬になって死を賭けてまで償おうとする話の結末としてはいささか理解し難い面もある。茂林寺の話だって、ぬくぬくとあたたかい座布団に鎮座して老後を過ごしているとは言え、元の狸に戻れないまま茶釜として生涯を終えると言うのも考えてみれば残酷な話である。

 この物語は動物報恩譚、つまり動物が助けてもらった恩に報いる話しとして位置づけられている。それは「鶴の恩返し」などと同じように、まさにその報恩の教えを伝えるための童話として語り継がれているのだと理解すべきなのだろう。
 だとすれば、この童話は受けた恩に対しては命をかけて、少なくとも生涯かけて報いるべきだと教えていると言っていい。

 日本人の報恩の観念は、こんなにもすざまじいものなのだろうか。恩にしろ罰にしろ生涯賭けて償わなればならないとする根っこはどこにあるのだろう。

 罪と罰の問題はドストエフスキーならずとも自らを罰することも含めて人類永遠の課題なのかも知れないけれど、許すことの難しさ、他者との折り合いのつけ方の困難さをこの物語は伝えているのかも知れない。




                     2005.12.01    佐々木利夫



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