頑張る、頑張らない
  
 「小学生に命の重みを問い直そう」として、誕生前の赤ちゃんの心音をスピーカーで流して子供たちに聞かせるという試みがあるようだ(群馬県相生小、05年1月28日読売)。
 そこでは講師の授産師が、こんな風に生徒に語りかける。「赤ちゃんは生まれる前から、こんなに頑張っているんだよ」、「みんな生きているだけで百点満点」。

 なんとなく感動的な風景だとは思うのだが、同時に割り切れないものも感じてしまった。胎児の心音に、「赤ちゃんが頑張ってる」はないだろうと感じたのである。
 「頑張る」というのは、その人が努力を重ねていくことや、意識を集中すること、つまり、「一定の意思をもって継続していく過程」を意味するのであって、自分の意思とは無関係なレベルでの「続いている状態」を表すものではないだろうと思ったからである。

 もし赤ちゃんの心音を「頑張っている」と表現するのなら、それは単に心臓が動いていることの別な表現を意味するだけに過ぎないことになるから、生きている人間は生きている間中、「頑張っている」ことになり、そうだとするなら世の中に頑張っていない人間など一人として存在しないことになってしまうだろう。

 心臓と命を結びつけるのも悪くはないが、そんな言い方をするなら、髪の毛や爪が延びるのも、血液が酸素を体の末端まで運ぶのも、胃や腸が食物を分解吸収して排泄するのも、みんなみんな「頑張っている」ことになってしまう。

 まあ、それもこれも「頑張っているのだ」と定義づけたいと言うのなら、それはそれで構わないのだが、この講師は「頑張る」という言葉の中に「立ちふさがる障害を乗り越えて努力する意思」みたいなものを重ねたいと考え、そうした思いを生徒たちに伝えたいと思ったのではないだろうか。もしそうだとするなら、心音にそうした意思の力みたいなものを持ち込むのは誤りだろう。

 「ひたすら」な状態に何かの擬人的な意思を見つけようとするのは、日本人らしい発想かも知れないけれど、あらゆる生物に共通な事象、更には坂道を登る蒸気機関車などにまで「頑張る」と表現するのはあまりにも安易過ぎるのではないかと思う。

 どうしてこんな些細なことにこだわるのかと言うと、「頑張る」をそういうように使ってしまうと、この言葉が持っている本来の「頑張ることの意味」を希薄にしてしまうのではないだろうかと心配になるからである。

 老人医療などの分野で最近、「がんばらない」、「あきらめない」という言葉が、長野県諏訪中央病院の鎌田實さんが発表した同名の著作を契機にけっこう使われ始めている。
 それ以前から私なんかは、「頑張れ、頑張れ」は余りにも強制的であって、どこか厭な響きを持つ言葉だと思っていたから、この著者の言葉にはすぐに同意することができた。

 しかし、それは、「頑張らなくてもいい場面にまで頑張らなくていいよ」、「ここまで頑張ったのだから、それ以上はもう頑張らなくてもいいんじゃない」という時に使うのであって、なんでもかんでも頑張ることそのものを否定するものではないだろう。

 結婚だって、人を好きになることだって、仕事や人間関係にだって、人間は生きていくうえでやはり頑張らなければならない時があるだろうし、頑張ることなしには成功も充実も満足もまた覚束ないのではないだろうかと私は信じているのである。

 そうした時、心臓の鼓動そのものを頑張っている証拠なのだと表現し、生きているだけで百点満点なのだと言ってしまったら、人が困難に向かって努力する姿勢と言うのは一体何なのだろうかと思ってしまうのである。

 必死で頑張っている人間に、追い討ちをかけるように「もつと頑張れ、もっと頑張れ」と励ますのは残酷過ぎるとは思うけれど、若い人にはやっぱり自分の意思で困難に立ち向かい、頑張ることで成功を目指してもらいたいと思うのである。

 私にだって、かなりしぼんできてはいるものの、それでもまだ頑張りたいと思う対象があると言うのに、少なくとも小学生には「生きているだけで百点満点」なのだとは、ゆめゆめ思って欲しくないのである。

 最近メールマガンジンの中で、こんな文章を読んだ。

 「頑張らないことに一生懸命になってみては?・・・・」

 おお、なんと日本人は「頑張らないこと」にも、全力挙げて頑張らなければならないのだと思っているのだろうか。

                       2005年02月01日    佐々木利夫


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