ふるさと銀河線
  


池田〜ワイン城

 帯広勤務当時の話である。仕事の関係で二度ばかり東京へでかける機会があった。本科、研究科などの研修で2年以上も東京暮らしをしていたからそれなり仲間もいて、神田や新宿の場末の居酒屋などで旧交を暖める。
 「お前いま、どこだっけ」、「帯広だ」。仲間の問いに私はこう答える。仲間はほんの一瞬考えてから、おもむろにこう話し出す。「ああ、ワインの池田の隣の町ね・・・・」

 なんだこれは。池田も帯広も共に十勝という地域にあって隣接しているけれど、帯広市は人口17万人を超えるのに対し、かたや池田は1万人を切る小さな町である。東京の仲間に威張るほどの大都会では決してないけれど、池田のほうが帯広の隣にあるのであって、断じて帯広が池田の隣にあるのではない。・・・・とは思うものの、あえて逆らうこともないのでそのままにしているけれど、内心穏やかではない。

 一村一品のはしりの頃で、池田町がワイン作りで全国制覇したのはまぎれもない事実であり、それに対し帯広は小麦と馬鈴薯とビート、それにかつての栄光の「赤いダイヤ」と呼ばれた小豆などを多少なりとも生産している地味な農業国だったのだから、東京の仲間の意識に池田のほうが先に浮かんだのも無理のないことだったかも知れない。
 その池田町の駅から程近い小高い丘の上に建つワイン醸造工場兼レストラン兼土産店が、建物の外観からワイン城と呼ばれ、観光客の人気を集めていた。

 ところでこんな話がソムリエにでも聞こえたら、それこそ卒倒してしまうかも知れないが、私のワイン歴は名にしおう「赤玉ポートワイン」から始まる。
 この酒はワインではないとか、ポート(ポルトガル北部のポート港からの船荷ワイン)の名称とは無関係であるなどの理由で、現在ではネーミングを変えられてしまっているらしいが、赤くて甘い、とてもおいしい酒であり、子供の頃に少し味見をさせてもらって以来、「素敵な大人の味」の酒であった。

 この酒は焼酎メーカーの商品だったから、もしかするとぶどう液にアルコールや砂糖などを混ぜたワインもどきの合成品だったのかも知れないけれど(間違っていたらメーカーさんごめんなさい)、戦後の甘さに飢えていた幼児体験を大人になっても引きずっている者としては、忘れられない味だったのである。

 本物のワインを最初に飲んだのはいつ頃だったのだろうか。恐らく二十歳をとうに超えていたと思うのだが、第一印象は「この酒はなんか変だ、酸っぱい、もしかしたら腐ってる?」だった。

 その後、自家用のワインセラーを持っている方からの御招待、ワインのラベルを収集している方からのうんちくを傾けながらの飲み会、ホテル主催のワインを味わうと称するしゃれた夕食会、それに仲間との気の置けないワインもビールも日本酒も飲み放題のチャンポン飲み会などなど、更にはマイホームでの晩酌なども含めて様々なワインとの付き合いがはじまった。

 しかしながら、今もって私のワインの根っこには、赤くて甘い「赤玉ポートワイン」の記憶が根強く刷り込まれているものだから、なかなか「ホンモノのワイン」にはなじめないでいるのである。

本別〜弁慶洞

 今年のNHKの大河ドラマは「義経」であるが、スタート時におけるチャンネルのタイミングを逃がしてしまったせいか、正月から始まったというのにまだ一回も見ていない。
 それでも義経伝説には興味があり、平泉で自刃したという史実にもかかわらずその後北海道へと逃げ延びてきたという伝説はけっこう大好きである。この地で援軍の船を待っていたという寿都の弁慶岬、アイヌの娘との別れの言葉、「来年きっと帰る」が語源となったという地名「雷電」、そこから程近い海岸の弁慶の刀掛岩、義経をご神体としている平取の義経神社、などなどこれ以外にも北海道には、義経が中国大陸を目指して逃亡していくまでの足跡をあちこちに見ることができるし、私も実際に訪ねたことがある。

 ふるさと銀河線の本別にも義経と弁慶が訪れており、義経山そして散歩コースで歩いていける洞窟、弁慶洞がある。釧路にも稚内にも義経伝説はあるから、彼らは果たして本別からどちらへ向かったのだろうか。
 各地にアイヌ娘との悲恋物語を残している義経伝説であるが、果たして蒙古へ渡ってジンギスカンになるまでの足跡をこの地からも追いかけることができるのだろうか。
 一関の衣川の合戦で最期を遂げた悲運の若武者の、死んでもなお生きていて欲しいと願った切ない人々の思いが、この小さな町にも・・・・・息づいている。

陸別〜しばれフェスティバル

 単身赴任の金曜日は自宅へ帰りたいと思うのだが、帯広から札幌まで特急で約3時間(今ならもう少し早く2時間少々である)もかかるし、札幌での勤務が13年も続いて久し振りの地方勤務だったせいもあって、時々は地元に居残ることが多かった。
 ある冬の金曜日の夕方である、札幌へ帰ろうと帯広駅まで出ると、そこに「陸別、しばれフェスティバル、本日」のチラシが張ってあるではないか。

 「しばれる」は北海道の方言である。寒いとか、冷たいを通り越した、銭湯帰りの濡れタオルがそのまま棒状に凍りつくような厳しい寒さのことである。ビールなどが凍りついて破損しないように、逆に保温のために冷蔵庫を使う、そんな常識から外れた寒さである。

 陸別は、北海道でも有数の寒さの厳しい土地であり、うろ覚えだけれど「夏35度、冬マイナス35度」をキャッチフレーズにしていたような気がする。
 その陸別で、その寒さを逆手にとってイベントに活用しようとしているというのである。急遽自宅へ電話、これからの行き先を変える。

 この日も寒かった。マイナス29度くらいだったと記憶している。イベントはキャンプファイヤーや売店などそれほど特徴のあるものではなかったけれど、ただ一つ、「無料寒天露天風呂」があった。にわか作りの露天風呂である。外は零下29度である。熱めの湯だから入っているうちはいい。だが上がるに上がれないのである。それでも入った以上は上がらなければならない。
 空気中の水蒸気が直接氷の結晶となってキラキラ光るダイヤモンドダストが、広場の明かりに降るように漂っているのが印象的だった。

 逃げるように駅前の古びた旅館に戻る。旅館だけではやっていけないのか、玄関の横手で居酒屋もやっている。部屋のストーブに火を入れて暖めておくとの話であり、焼酎のお湯割りを飲みながら、数人の客に混じって陸別の噂話をゆっくりと聞く。
 「どこそこの息子が街から出ていったけど、どこそこの娘が戻ってきたし、誰それが子供を生んだから陸別の人口はいま何人だ」などと、陸別町の現状について、それはそれは町長もどきの熱心さである。
 朝は寒さで車のエンジンがかからなくなるので、夜通しかけっぱなしにしておくという話もこの地で始めて聞いた。

 少し酔って眠くなってきた。部屋に戻ってゆっくり休もうか・・・・。なんとストーブの火が消えているではないか。いかに家の中とはいえ外気温零下29度の部屋の中は、ちっとやそっとの時間で暖まるものではない。布団の中も氷のようである。夜中に小便に起きることのないよう密かに祈りながら、身動きせずに暖まるの待つしかない。それでもやがてうとうとと朝を迎えた。

 さて、翌日は快晴。窓から差し込む朝日に障子を開ける。なんと、そこには窓ガラスの隙間から吹き込んだ雪がたっぷりと積もっているではないか。
 「しばれ」を十分に味わった、陸別の思い出である。

小利別〜凍りついた駅舎

 上の地図にはないが、置戸(おけと)の一つ手前に無人の小利別駅がある。この駅舎が、真冬、丸ごと凍りつくのである。もちろん自然に凍りつくのではない。どんなに寒くたって、建物そのものが自然に凍りつくなんぞということはない。

 水をかけるのである。酷寒の地のこれも一種のイベントである。駅舎そのものに繰り返し繰り返し水をかけて凍らせるのである。建物の地肌が見えなくなるまで氷漬けにするのである。

 その氷漬けの期間だけ駅員がいて駅ホームへの記念の入場券を売るという、なんだか馬鹿馬鹿しいけれど、とっても切なくて、それだけ一生懸命な思いが伝わってくる小さなイベントである。
 もちろん入場券は買った。手漉きの和紙で作られた手作りらしい140円の入場券である。昔のアルバムの片隅に今でも残っている、昭和61年2月2日と書かれた小さな真っ白な入場券から漂ってくる、これはかつてのささやかな記憶である。

北見〜はっか記念館

 北見は旭川方面から来ると、網走や阿寒・摩周更には知床方面への交通の要所でもあるところから、何度か通ったことがある。しかし、北見の街そのものには特に目立った観光拠点もないことから結局は通過点に止まってしまい、あんまり記憶に残っていない。

 この地方は、昭和の初期、天然薄荷の主要な生産拠点であり、一時は国内生産の9割、世界の7割を占めたとまで言われており、国際的にも薄荷相場は北見で決まるとまで言われたほどにも名を馳せた土地であるが、合成薄荷が登場してからは衰退の一途をだどり、現在では見る影もない。
 いまでは僅かに「はっか記念館」に並べられた古びた道具や展示品の中にその名残りを味わうことができるくらいである。

 それでもかつての思い出にすがるように、菓子「はっか豆」など、薄荷を利用した商品がいくつか作られている。私もいつだったろうか、「薄荷楊枝」を買ってきたことがある。
 爪楊枝の先に、ほんの少し薄荷が塗ってあり、使うと薄荷の香りが口の中に広がるという、ただそれだけの商品である。しかしながら、薄荷は少量でも特徴のある香りと刺激を持っていて、なんでもかんでも薄荷一色に染め上げてしまうような強烈な個性がある。

 だから、これはあくまでも私個人の主観的な感想ではあるけれど、楊枝というのは食事のすぐ後に使うものなので、この楊枝を使うことで、それまでに食べた料理などの豊かな味わいが一瞬にして消され、口中が薄荷だらけになってしまう、そんな気がしてならないのである。

旅の終わり

 ふるさと銀河線の旅も終点に着いた。存続かバス転換か、長い間議論されてきたけれど、赤字解消の目処が立たないまま、来年(平成18年)4月20日で廃線になる。
 私が帯広勤務のときには、士幌線(帯広から糠平まで、かつてはその奥の十勝三股まで鉄路がひかれていたことがある)が消えてしまったし、転勤の翌年の昭和62年ではあるが帯広から広尾まで続いていた広尾線もなくなった。

 私の生まれた夕張を始発として、札幌の近くの野幌まで続いていた私鉄「夕張鉄道」も消えてしまったし、同じく夕張にあった私鉄「大夕張鉄道」も今はない。

 考え始めてみると、このほかに自分で乗っていた線路がいくつも廃止されている。天北線(稚内〜音威子府)、興浜北線(枝幸〜浜頓別)、幌内線(三笠〜幾春別)などなど、数えだすときりがないくらいに後から後から思い出されてくる。
 この歳になったということは、そうした多くの廃止された鉄路の記憶をたどることでもあるのだろうかと、ふと感じ、そうした消えた鉄路に僅かながらも我が身を重ねてしまうのは、もう誰だったか忘れてしまったけれど、幼い頃の友人の呟いた一言、「蒸気機関車の煙には修学旅行の匂いがある」ことと共通しているからなのかも知れない。



                          2005.04.21    佐々木利夫   



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始めに

 ふるさと銀河線が廃止されることになった。もともと網走本線の一部で、太平洋側の根室本線池田駅とオホーツク側の石北線北見駅を結んでいたのだが、昭和36年に両端の駅名をつけて池北線と改称された。

 平成元年6月、国鉄再建法のもとで北海道唯一の第三セクター鉄道として再発足することになり「ふるさと銀河線」と呼ばれることになった。

 まだ池北線と呼ばれていた昭和59年7月から2年間、私は帯広に勤務していた。特に池北線に思い入れがあったわけではないけれど、この沿線風景は単身赴任を慰めてくれる格好の場所でもあった。

 バス転換の話を聞いて、遠いかつてを思い出すのも、今が閑居のせいでもあろうか。