最近入院していたことは先に発表した(ひとり言・思いつくままに・
我がミニ闘病記)。これは病院のベッドの上で感じた他愛のないひとり言である。
「廊下で待ってもらっていいですか?」。見舞いに来た人たちへの看護師の声かけである。もちろん患者の治療や介護や世話などのため、邪魔にならないようしばらくの間病室の外で待っていて欲しいという意味である。
「脈測らせてもらっていいいですか?」、「血、取らせてもらっていいですか?」などなど、患者に対してだってこの「・・・もらっていいですか?」という言葉遣いは、マニュアルで指示されているのか頻繁に使用される。
この言葉遣いは文法的には疑問文であると同時に「いいですか?」と聞いているのだから承諾を求めている言葉でもある。承諾を求めているとするならば、それに対する返答はyesでもnoでも求められた人間の任意だということになる。そのことはいいのだが、何にでもこのような言葉遣いをされてしまうと、どことなく奇妙に感じてしまう。
と言うのは、こうした言葉遣いは実は承諾を求める形をとっているのだが、本質的には命令の意味になっているからである。
食事が食べ残されているときに、「食事下げてもいいですか?」なんて聞かれるのには抵抗がないんだけれど、「熱測っていいですか?」とか「血圧測らせてもらっていいですか?」なんて言われると、それはお願いではなく、まさに命令なのではないかと感じてしまう。つまりは答える側に拒否権が無いのである。無いというのとは少し違う。始めから承諾が前提になっており、発言する側も返事をする患者も始めから拒否のことなど考えてもいない会話なのである。
そうだとするなら、この「・・・いいいですか?」という承認を求める発言は、一体何を意味しているのだろうか。本来、「いいですか?」は、相手の承諾を期待して発する言葉、つまり期待であって命令ではないはずである。そして受ける側も相手の期待に応ずるか拒否するか自由に決められる立場にあるはずである。
実はこういうように考えると言うのは、この両当事者の関係が対等であるという前提が基になっている。つまりは、A−Bが対等だからAから発せられた期待にBは己の意思のままに決断できるのである。
ところが現実にこうした言葉が発せられる場面と言うのは、A−Bが対等でないケースが多い。もちろん、対等な力と言うのは必ずしも腕力、権力と言った物理的な実力もさることながら、恋人や孫などからオネダリされるなどと言った精神的、情緒的な力も存在する。しかも、こうした「いいですか?」という言葉は、発言する側が比較的優位な立場に位置づけられている場合が多い。
そうした場合、この「いいですか?」と言う発言は決定的な意味の違いをもたらす。つまり、「依頼」から「命令」への質的な変化である。
私はこの変化を自身が入院することで現実のものとして受け取ることになった。私は患者である。と言うことは、発言者は必ず医師であり看護師でありリハビリの各種療法士であり、いわゆる病院関係者である。そうするとその場における各種の会話は、私というフイルターを通して形成される関係になる。つまり私自身も私の見舞い客なども、全員が「患者である私」という存在を通して病院関係者と会話することになると言うことである。そして病院関係者は常に「いいですか?」を発言するAの立場であり、私や私に関係する者は常に受け手としてのBである。
さてここで疑問である。先ほど私はA−B間の力関係による言葉の質の変化について述べた。ところがこのように考えてくると、A−B間に力の差を生じさせたのは、A、Bそれぞれが持っている固有の人格とか知識などによるものではない。患者と病院関係者という構図を作り上げたのは、何のことはない「私の病気」という事実と言うか状態である。
だから、A−B間の会話と言ったところで、仮にAが私に「100万円贈与してもらっていいですか?」なんて問いかけをしたとすると、A−B間の力関係は突然に本来の対等場面に復活する。それはつまり、A−B間の力関係がそうさせたのではなく、A−Bを作り上げていた患者対医療関係者という媒体の破壊にその原因があるのだと考えられる。
私がこんなことを考えるのは、「いいですか?」の代わりに日本語には「してください」という表現があるではないか、と考えてしまうからである。共に相手を高める言葉でありながら、「いいですか?」が使える場合、使っていい場合、「してください」のほうが適切に思われる場合、更には例えば「血圧測りますよ」などの優しい命令形などの使い分けがあるのではないだろうかと考えたりしているのである。
どうもその辺の使い分けの区分がどこかで混乱してしまっていて、実質とは無関係になんでもかんでも「依頼して承諾を得る」と言うような形式的な表現になってしまっているのではないだろうか、そんな風に感じた入院中の気ままな暇に任せたへそ曲がり患者のつぶやきである。
なにしろ、「血圧測らせてもらっていいですか?」と言いつつ、看護師の手は早くも私の返事を待つことなく血圧計の帯を私の腕に巻きはじめているのだから・・・。
もちろん決して看護師には逆らわないことに決めている我が身にとって、こんなことを始終考えていていれば血圧の安定には決して良くないであろうと十分に承知してはいるのだが・・・。
2005.08.18 佐々木利夫
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