実はお盆にかけて入院していた。8月10日(水曜日)にホームページへエッセイ2本を発表して、午後からうとうと事務所で昼寝していた。目が覚めてトイレに行こうとしてなんだか変な感じがする。脱力感と言うか、どこか力が入らないのである。目まいともつかず足元が覚束ない感じである。それでもたいしたことないやと普段どおりに仕事を終え、午後6時前、歩いて自宅へ向かう。途中なんだか左に歩行が傾くようで電信柱に左手をぶつけたりしたが、夕食もテレビもなんということはない。布団を敷こうとして後ろに倒れこみふすまに思い切り体をぶつけたがそのまま寝て朝を迎えた。だが「なんか変だ」という感じは依然として消えず、今日は8日の月曜日に受診した札幌市のすこやか検診の結果が分かる日なのでそのついでに医者に話を聞いてもらおうと思ったのだが、妻から「顔の右が引きつっている、歩き方も変だ。すぐ病院へ行こう」と言われ、そのままハイヤーですこやか検診を受診した事務所近くの静和病院へと向かう。

 受付で症状を話し、脳神経外科の診察を受けたいと伝える。MRIやCTの検査を受けた結果、脳梗塞の疑いがあるとのことで直ちに入院を指示される。なんと言っても両の手のひらを上にして前に突き出し目をつむると自然に左手が下がってしまうことに我ながら驚く。突然入院と聞いて驚いたが医師の指示だから仕方がない。しかし今後の通院や女房の付き添いなどを考えるとこの病院よりは自宅からJRでスグ行ける手稲の渓仁会病院のほうが便利である。急遽紹介状を書いてもらうこととし渓仁会へ電話すると、毎日の受付は午前11時半までとのことである。現在時刻は既に11時を過ぎており、残り15分足らずである。ハイヤーですっ飛ばしてどうやら間に合う。
 やはりここでも即入院とのことで、外来の待合室で点滴をうけながら病室を待つ。3階脳外科910号室にベッドが決まり、点滴のまま車椅子で運ばれる。

 さてそれからは、生理食塩水と血液さらさら薬の点滴、同じく血液さらさら薬と称する錠剤のみであり、これは退院まで変らなかった。静和病院で脳梗塞らしいとの診断は受けたもののそれ以後医者からはなんの説明もないままひたすらベッドの上で天井を眺める生活である。どうやら妻の言う顔の右の引きつりは誤りで、事実は左が下がっていたらしく、結局左半身に麻痺が来ているということで統一がとれていることになった。
 だが医者は脳梗塞との診断を確定させていたらしく、翌日から直ちにリハビリが始まった。無意識にリハビリと言う言葉から、何かにつかまりながらの歩行訓練と言うようなイメージを抱いていたのだが、私の場合は三つに分かれ、それぞれに担当者が異なっていた。言語療法と作業療法と理学療法である。

 言語療法とは言葉通りの意味だがその外に食事のための嚥下能力の回復なども含まれるとのことである。ほっぺを膨らませたり舌を出し入れしたり、そのほか「ウ、イ、ア、オ、パタ、アガ」など言いにくそうな言葉を連続して発音する練習、それに手近にある文章の音読である。ちょうどエッセイ「空蝉」の作成中だったこと、それに童話関係のファイルを作成中で、「天狗のかくれみの」だけが出力漏れのためプリントを手持ちしてこともあってそれらを読む。だだこうしたリハビリはすべて病室のベッドの上で行うので、同室の患者に作業のすべてを聞かれていることにもなり、それが少し気になった。

 作業療法は指先の訓練である。積み木を積んだり移したり、大豆ほどの小さな粒を片手で広口瓶の中に入れたり、硬い粘土状の物体を細く延ばしたり片手で団子を作ったりとさまざまな訓練がある。
 ただここで問題なのは、私は右利きだからもともと左手は不器用のはずである。だから、左手の動きが右手より鈍くてもそれが麻痺によるものなのかそれとも本来の不器用さから来ているものなのかの区別が難しいことである。このことは比較的大きな問題である。なぜなら、麻痺そのものをきちんと自己認識できるかどうかと言う問題に直接かかわってくるからである。

 理学療法はいわゆるリハビリの定番とも言うべき運動機能の回復訓練である。主に足腰の屈伸とマッサージそれに歩行訓練であるが、筋肉硬いですねなどと言われながら前後左右と膝で歩かされたり、直線の上を揺れることなくゆっくり歩けと言われてもやってみれば分かるがとても大変である。ましてや片足立ち20秒などと言われても・・・である。

 それでも麻痺は比較的軽かったということであろう。会話は誰とでも普通に通じるし、トイレや廊下の散歩など通常の歩行にも特に困難は感じない。それで入院5日目の15日(月曜日)に半日の外出許可をもらう。移動にはハイヤーをと思ったのだが、特に問題がなさそうだし医者にも車の運転以外に禁止されることもなかったので、手稲駅から琴似駅までJRで行きそこから事務所まで歩くことにした。

 さて炎天下を女房殿同伴で事務所へ向かうが左足が何歩かに一歩、少しすり足になる。それに事務所でメールの整理を始めたのは良かったが、キーボードの操作が難しい。左手を少し浮かしているつもりがいつの間にかキーが押しっぱなしになってしまうし、思う活字の位置へ指が行かない。つまりはいつもどおりのキー操作が難しいのである。作業療法における左手が思うに任せないのはそもそも始めから左手が不器用だからではないのかという身勝手な自説は、これであっさりと否定されてしまったのである。つまり左半身の不自然さは歩くことも含めて麻痺の影響によるものだと、自分で証明してしまったということである。おお、なんたることか。

 私はラッキーだったと感じているのだが、今回の病気を軽くてラッキーと考えるか、それともすぐに病院に行かず自己判断で一晩を自宅で過ごしたために場合によっては一過性で簡単な治療で完治したであろう症状をいずれリハビリなどで改善されるにしろ当面麻痺という形で固定させてしまったことを反省すべきなのかそれは分からない。

 しかし、ことは脳梗塞である。場合によっては自覚症状のないまま治癒してしまうケースもあるらしいが、極端な場合倒れたまま死に至ったり植物状態になったりした人の話も聞いたことがある。血液さらさらの話は普段からそれなり聞いてはいるけれど、血の塊が血管を移動して脳の血管の特定部分に詰まるのだから、言わば不意打ちである。それを数時間の単位で医者の診断を受けろというのはかなり無理があるのではないだろうか。そういう意味では今回の病気は発症が軽くてラッキーだったと思うのである。

 今までは、病気はどんなものにしろそれは他人事であった。これまでほとんど医者知らずで過ごしてきた者の驕りだと言われればそれまでだけれど、死に至る病気だろうが七転八倒の痛みだろうが、どんな病気でもそれは自分のものではなかった。それが今回は己の病気である。己だけの病気である。この彼我の違いは大きい。それに気づいただけでも大きな収穫だったのではないかと、ふと感じたりもしている。

 そして同時にリハビリをしながら感じたのは、リハビリと言うのは自分との闘いだなと感じたことだった。これまで闘いと言うのは「他人との闘い」であるとか「自然との闘い」など、いわゆる他者へぶつかっていく過程を示すものであると無意識に理解していた。しかし、今回の出来事は病気というのはまさに己との闘いであることを容赦なく知らせてくれた。
 病気についての、いわば意識レベルでの感覚とまさに自身がぶつかっている現実との違いは本当に大きな差として迫ってくるものがあった。

 それでもどうやら入院も8泊9日の8月19日(金曜日)をもって退院を許可され、こうしてこのエッセイを打つパソコンのキーボード操作も今は、ほとんど以前と変わりなくなってきているし、歩くことに特別違和感を覚えることもなくなった。一週間前の外出許可の時とは大違いである。リハビリも含めた治療のせいなのか、一過性と変らないくらいに軽度の発症だったせいなのか、それは分からないけれど、退院から3日目、どうやら日常が戻ってきたような気がして、そのことが無性に嬉しい。

 さて、今日もそうだが、いつも通りに、歩いて通勤している。とは言え、歩くことは運動療法、口を大きく「ウ」と突き出し「イ」と引き締めるのは言語療法、カバンを右手に持って左手は「グー」と「パー」を繰り返す、これが作業療法だと男は勝手に信じ込んで歩いている。知らない人が見たら訳の分からないへんてこりんな行動だろうけれど、リハビリを兼ねていると信じ込んでいる男のへんてこ通勤はしばらく朝夕続くことになるのだろう・・・・・。

 追記。これはリハビリとは関係ないのだが、2―3日前のテレビで口を開けたり閉じたりする運動は、口の周りの小皺を延ばし、顎の張りを良くする効果があると放送していた。名づけてフェイスエステと言うのだそうである。そうだとすればしばらく待てば我が顔つきも一段と若々しくなる・・・・?、・・・ん、一体お前は何を考えているんだ・・・・・・・。


                            2005.08.22    佐々木利夫

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