新聞に出るくらいだから、それなり世間の耳目を集めた事件なのだろうし、それだけ凶悪度も高いからなのかも知れないけれど、最近の刑事事件の判決文を引用したテレビのニュースには、なんでもかんでもこの「自己中心的」という言葉が目立ち過ぎる。

 テレビニュースのキャスターが読み上げた判決文の、ほんの数語を聞いただけでこんな風に言うのは間違いだとは思う。批判するためには、それなり判決文の原文に当り、どのような事実認定がなされ、その結果裁判官がどのような状態を「自己中心的」と認定したのかまで読み解く必要があることは理解している。

 だからそうした努力をしないで気まぐれみたいにこうして批判めいた文章を書いてしまうのは、まさにそのこと自体「自己中心的」と言われても仕方がないのであるが、あまりにも同じ言葉を繰り返されると、どこか変だなと感じてしまうのである。

 ところで、その言葉自体はよく分かるのだけれど、さて一歩下がって考えてみた場合、そもそも「自己中心的でない犯罪というのが果たして存在するのだろうか」とか、「人間なんてみんな自己中心的じゃないの」とか、振り返って「私だってかなりの部分自己中心的だよな」などと思ってしまう。

 そしてそのついでに、この「的って一体なんだろう」とまで思ってしまう。「的」という語尾をつけると、なんでもかんでもそれらしくというか、どこか正統派の論文を味方につけているような、そんな雰囲気を読む人に与えてしまうような気がする。

 以前から使われている若者言葉の中に「ジコチュー」という用法があり、その辺の使い方なら「まあ、いいっか」くらいで済むのだけれど、ことは判決文になるとそうも言ってられないものがある。
 もちろん判決文を書く裁判官も、そうした読み手の意識を十分に予想した上で説得力ある用法だと確信して使っているのだとは思うけれど、やっぱりどこか変な使い方ではないのかと感じてしまう。

 犯罪に限定してもいいのだが、一体、「自己中心的でない犯罪」って、どんなものがあるのだろうか。窃盗でも強盗でも、強姦や殺人だって、その行為者の身勝手な意思を離れては成立しないのではないだろうか。
 殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と叫んだムルソー(F.カフカ、『異邦人』)にしろ、例えば「神が殺せと命じた」とか、「人間の存在そのものが悪である」などという狂気じみた考えがあったとしても、それだってやっぱり言葉を変えてみれば「自己中心的」と言えるだろう。

 私は、「自己中心的」という言葉そのものに異議を唱えているのではない。そうした犯罪が「自己中心的」であることは十分理解しているのだけれど、同じ言葉が何度も何度も繰り返し繰り返し使われているうちに、いつしかその言葉の持つ説得力というか、神通力みたいなものが徐々に損なわれていってしまうような気がしてならないのである。

 言葉を「言霊(ことだま)」なんぞという古めかしい定義で位置づけようとは思わないし、時代によって変わっていくのが言葉であることも十分に理解している。それでも、一つ一つの言葉には固有の誇りというか、汚してはならない輝きみたいなものがあるのだと思う。

 しかも、こうした言葉に「的」という、どちらかと言えば定義のあいまいな語尾をつけることによって、そのつけられた言葉の持っている範囲や輪郭をぼやけさせてしまう。

 なんでもかんでも、「的」という曖昧模糊とした黄昏の中に押し込めてしまい、しかもそのことに無批判に納得してしまう、そうした言葉の使い方が大切な日本語を貶(おとし)めているということに、「常に自己中心的で融通無碍かつ頑迷固陋な私」は、我慢がならないのである。

 悪文の典型例とされている判決文ではあるが、私はこの悪文にはそれなり愛着がある。税務という長い職場経験の中で、どちらかと言えば法令の解釈といった仕事に携わる機会が多かったせいもあり、それだけ判決文に親しむ期間が長かったからなのかも知れない。判決文が悪文のとされる背景には、はやり一つ一つの持つ言葉を大切しに、読み手の自在な解釈を避けようとした意思が強く働いていることもあるのだろうと思う。まわりくどくても、四角四面でも、誤解されない意思の伝達のために必要な一つの方法だったのだと思う。

 なんでもかんでも「的」をつける時代である。「わたし的・・・」なんという表現には、思わず話し手の顔をしげしげと見てしまうこの頃ではあるが、判決文の「的」にはまだなじめない私が、ここにいるのである。


                            2005.03.29    佐々木利夫


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